4/1(月)に、残っていた最後の「青春18きっぷ」を使い、岐阜県へ日帰りお城巡りに出かけ、1城目は「久々利城」に登城して、2城目は名鉄「明智駅」から「八百津町方面」へ行くバスに乗車し「城戸坂」で下車してそこから「美濃金山城」(岐阜県可児市)に登城しました。

 

バスで12時37分に着くと、案内板が立っていてそこから切通しになっている車道をひたすら登って行きます。5分位すると左へ入り込む道に「古城山登山口」があり、更に中に入っていくと「大手道」という看板があってそれに沿って上って行きます。かなり登りやすい道が続きます。

 

「切通し」の道↓

「大手道」の「道標」↓

 

10分位すると前面が開けた場所に出てその先に展望台が見え、かなり下には駐車場とその脇には塊の岩盤が見えます。

 

「展望台」↓

「美濃金山城跡案内図」↓

 

展望台の方に向けて足を進めると「出丸」跡にでました。さあ、ここからが城域となりますので、その前に「美濃金山城」の歴史と城主について触れておきましょう。

 

当城は、「斎藤道三」が勢力を拡大した時期である1537年に、東美濃の抑えとして「斎藤正義」に命じて「烏峰(うほう)城」を築城しました。その後1548年に「久々利城」に招かれた「正義」は「土岐氏」に襲われ殺害されます。

 

1565年に「織田信長」の東美濃攻略に伴い、家臣の「森可成」を城主として城名を「金山城」に変更しました。1570年の近江で起こった「宇佐山城」を巡る戦いで「可成」は討死し、息子の「長可」が城主となります。

 

「長可」が川中島へ移るとその息子の「乱丸」が城主になりますが、1582年の「本能寺の変」で「信長」とともに討死したので、再び「長可」が城主となりました。

 

1584年に「小牧・長久手の戦い」で「長可」が討死すると、弟の「忠政」が城主となりましたが、1600年に「忠政」が「川中島」へ移ると「金山」は「犬山城」城主の「石川光吉」の領地となったことから、お城の破城と「金山越」が行われました。

 

美濃金山城」の立地と縄張は、「本丸」を標高276mの山頂に置き、その周囲には東・南・西に「腰曲輪」を配備しました。更に、その下に「二の丸」「三の丸」を置き、物見的な「出丸」を築いています。織豊式城郭として「高い石垣」を築き、門は石垣使用の桝形虎口を構え、「建物」群は瓦使用で礎石を使ったモノを曲輪内に建築しました。

 

「可児市城跡ガイドブック ふらっと城跡めぐり」の「美濃金山城」縄張りに加筆↓

「縄張り図」(パンフレットに掲載)↓

 

まず「出丸」跡の上は、広い敷地でそこに立っていても「石垣」造りというのが判らないですが、その脇から廻り込んでその下に下りてみると「出丸」跡の南面には、「野面積み」の石垣がびっしりと積まれていました。

 

「出丸」跡上↓

「出丸」跡石垣↓

「出丸」跡石垣↓

「出丸」跡石垣↓

「出丸」跡石垣↓

「出丸」跡↓

 

「出丸」跡から少し東へ移動すると「パンフレット」や「杖」が置かれた登城口があり斜めに上がって行きます。登り切った所には「三の丸」門跡があり、「三の丸(「水の手二の丸」とも記載)」跡の敷地に入ります。

 

「三の丸」門跡↓

「三の丸(「水の手二の丸」とも記載)」跡↓

 

この右手にはロープが張った中に「二の丸西面石垣」が説明書きとともに目に入ります。まさにその石垣は「天端石」「隅石」が無くて「破城」した跡が良く解ります。

 

「二の丸西面石垣」↓

 

「三の丸(「水の手二の丸」とも記載)」跡の敷地の北西側には片方を岩盤で削った「虎口」があり、「城下町」へ続く道があったそうで、「水の手」にもなっているようでした。

 

「三の丸(「水の手二の丸」とも記載)」跡の「虎口」↓

「城下町」へ続く道と「水の手」↓

 

当曲輪の北側に大きな石でできた「古城山払い下げ記念碑」が立ちます。この山は江戸時代尾張藩の留め山となっていて入城禁止の山でした。1945年以降国有林となっていましたが1953年に地元に払い下げられた記念で立てられたモノです。

 

「古城山払い下げ記念碑」↓

 

その裏(西)側の敷地が「三の丸北曲輪」跡で、そこから断崖絶壁になった「西腰曲輪」や「本丸」とその曲輪面には破城されているものの、貼りついる石垣を見上げることができるビューポイントになっています。

 

「三の丸北曲輪」跡から「西腰曲輪」跡や「本丸」跡を見上げる↓

「三の丸北曲輪」跡から「西腰曲輪」跡や「本丸」跡を見上げる↓

 

ここを出て碑の前を通って少し石段を上がった所が「二の丸」跡で、入口付近は「土塁囲い」になっています。中程には少し出張った所があり「二の丸物見櫓」跡と説明書きに記載されています。

 

「二の丸」跡入口付近は「土塁囲い」↓

「二の丸物見櫓」跡↓

 

「二の丸」跡の西端からは、石段が真直ぐ延びて右に折れる「大手桝形虎口」になっています。この「虎口」の両脇、正面には石垣が積まれていて、「一の門」(手前)には「礎石」が残っていました。

 

石段が真直ぐ延びて右に折れる「大手桝形虎口」↓

「大手桝形虎口」左側の石垣↓

「大手桝形虎口」右側の石垣↓

「大手桝形虎口一の門」の「礎石」↓

「大手桝形虎口二の門」↓

 

ここにあった門は犬山市内の「瑞泉寺表門・裏門」へ移築されて現存しています。

 

「瑞泉寺表門」(金山城大手門→犬山城内田門へ移築後「瑞泉寺」へ)↓

「瑞泉寺裏門」(金山城城門→犬山城へ移築後「瑞泉寺」へ)↓

 

「大手桝形虎口」の脇には門を監視する「櫓」が建っていたようで想像図が掲出されていました。この場所から西側は「西腰曲輪」跡になっていて、先ほど「三の丸北曲輪」跡から見上げた際に見えていた「石垣」はそこの断面にあります。

 

「櫓」の想像図↓

 

「虎口」の「二の門」を抜けると「南腰曲輪」跡になります。「本丸」跡の南端には「天守台」があり、その「石垣」が破城後ですがこの「南腰曲輪」跡から見ることができます。特に、南西隅の「天守台」隅石や南面の石垣はシッカリと残っています。

 

「南腰曲輪」跡↓

「本丸天守台」↓

「本丸天守台」(南面)↓

「本丸天守台」(南西隅)↓

「本丸天守台」(隅石から東面)↓

 

「天守台」脇の道を上がって行くと「本丸」跡の東面沿いを進むことになりますが、そこにも石垣が貼りつき「横矢掛かり」の遺構も見られました。

 

「本丸」跡東面の「横矢掛かり」(「天守台」方向)↓

 

「本丸」跡東面には、先ほどの「大手桝形虎口」よりも立派な「本丸桝形虎口」が口を開けています。こちらも両脇、正面は石垣で固められていて左へ折れる構造になっています。

 

「本丸桝形虎口」↓

「本丸桝形虎口」(左へ曲がります)↓

 

「虎口」を上がると「本丸」跡が拡がり、北側と西側の断崖絶壁からの眺望は素晴らしいです。「木曽川」の流れが雄大に曲線を描き、しかも西側から見る川は太陽で光輝いていました。

 

「本丸」跡↓

「金山城跡」碑↓

「本丸」跡から北方向の眺望(木曽御嶽山、木曽川、手前は殿町で城下町兼山) ↓

「本丸」跡から北西方向の眺望(木曽川、美濃加茂、岐阜方向)

 

しばし、そこのベンチで眺めを楽しみながら、お茶とお菓子で一息入れました。この日は、朝から風が強くて、かなりアゲンストの風で歩いたり、登ったりするのに力をいつも以上に必要でしたが、ここ「本丸」跡でも気を付けないと帽子が飛ぶくらいの突風が吹いていました。

 

暫しの休息後先ほどの「虎口」を下りて、「本丸」跡北東側にある「東腰曲輪」跡へ廻り込みました。「本丸」跡北東面は石垣が岩盤と共に積まれていて、その手前には石や岩を並べた長方形の枠が確認できました。説明書きには「集水桝」とあり、雨水を溜めておく井戸替りのモノでこの辺りは「水の手」代用でもあったようです。

 

「本丸桝形虎口」の北東側で「東腰曲輪」跡↓

「東腰曲輪」跡↓

「集水桝」↓

「集水桝」↓

 

更にはこの曲輪の東端には、石垣が際(きわ)沿いに築かれたり、「裏込石」が集められた山積みがあったりする曲輪になっていました。

 

「東腰曲輪」跡の東際(きわ)沿いに積まれた石垣↓

「裏込石」が集められた山積み↓

 

ここから「搦手門」跡を抜けて「左近屋敷」跡へ通じる道がありますが、現在は通行禁止となっていて、二段の石垣や破城状態が見られる「屋敷」跡には行けませんでした。

 

「搦手門」跡の「礎石」↓

 

私は、「南腰曲輪」跡の東面脇を通り抜けて「二の丸」跡へ出ましたが、その途中にも「南腰曲輪」跡の石垣が貼りついているのを見ることができました。

 

「南腰曲輪」跡の段下東面の石垣↓

「南腰曲輪」跡の段下東面の石垣↓

 

「二の丸」跡から一旦「出丸」跡辺りまで下山して、「展望台」へ向かいました。ここからは、「明智荘」と「明智城」が見えるポジションで、以前、「明智城」からこの「美濃金山城」を眺めたことがあったのを思い出しました。この下は、まだ桜があまり開花していませんでしたが、もう少しすると「蘭丸ふるさとの森(公園)」は花見客で大賑わいとなるでしょう。

 

「明智荘」と「明智城」の山(手前)↓

 

私は、あと見所である「大堀切」がある所まで歩を進めました。「大堀切」は、南北50m、幅4~7m、高さ10mもあり、岩盤をカットしている所もあり大工事だったことが窺えます。この「大堀切」の西側上に「左近屋敷」跡があるようで、行けなかったことが恨めしく思いました。

 

「大堀切」までの途中に「竪堀」?のような斜面が↓

「大堀切」までの途中に「竪堀」?のような斜面が道を越えて下っていく↓

「大堀切」↓

「大堀切」の岩盤(この上辺りに「左近屋敷」跡があるようです↓

 

帰りのバスの時間を気にしながら、下山をしましたが、下りは早く下りることができて「城戸坂」バス停には早く着くことができたので、「兼山城下町」やバス停近くに建つ「森長可」「長定」の母の菩提寺である「常照寺」を見学しました。櫓門が立派なお寺でした。

 

「兼山城下町」(古い蔵が建ち並びます)↓

「兼山城下町」(古い蔵が建ち並びます)↓

2001年まで名鉄「八百津線」が通っていた証↓

「森長可」「長定」の母の菩提寺である「常照寺」↓

 

「城戸坂」バス停16時8分に乗り、名鉄「明智駅」から「新可児駅」へ移動しました。JR「可児駅」は「新可児駅」に併設していて16時50分に乗車、帰りの車両はクロスシートのディーゼル普通列車で、そのディーゼルの始動音が何ともいえないくらい心地良い響きでした。

 

「名鉄広見線 復刻塗装車両」(「新可児駅」にて)↓

JR「太多線~高山本線乗入れ(岐阜行き)」(「可児駅」にて)↓

JR「太多線~高山本線乗入れ(岐阜行き)」ディーゼル列車、クロスシートの車両↓

 

終点「岐阜駅」で「東海道本線」の米原行「快速」に乗換え17時51分発の電車でしたが、当日の豊橋での強風による影響で遅れが出て20分間駅で立ちんぼう、着いた電車はラッシュ時でもあったので頗る満員、しかも「米原行」だったのに途中の「大垣」で運転取りやめとなったので、「大垣」で後続の「快速」が来るのを再び20分間待ちんぼうとなりました。

 

結局、米原からは約1時間近くも予定より遅れたので帰宅したのも22時となりました。

 

しかし、最後1枚(回)残りの「青春18きっぷ」で何処にいこうかとアレコレ考え、またアクセスも色々シュミレーションをしたことで最もリーズナブルなルートを選択できたことで、今回の2城の登城にしたことには満足いくお城巡りとなりました。やはり、事前の詳細な検討と予習は必要であることをしみじみと感じました。

 

 

 

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