4/1(月)に、残っていた最後の「青春18きっぷ」を使い、岐阜県へ日帰りお城巡りに出かけました。

 

残っていた最後の「青春18きっぷ」を使用↓

 

大阪駅6時33分の新快速で米原駅へ、そこから「JR東海」で大垣と岐阜で乗換えをして「可児駅」へ10時42分に到着しました。 

 

今回は、「久々利(くくり)城」(岐阜県可児市)へ行くのに公共交通機関が利用できないかと色々と調べた結果、可児市では「デマンドバス」という予約システムで運行している移動手段があることがわかり、事前に予約をしました。

 

毎時0分発に「久々利」方面へ行く「デマンドバス」があったので11時に予約しておくと、市が提携しているタクシーが来ました。名前を言って乗せてもらい、その時はもう一人お客さんがいて途中の停留所で降りたので、後は私一人で「可児郷土歴史館」まで300円で運んでくれました。

 

「歴史館」でパンフをいただいて、「久々利城」の入口へ向かいました。

 

久々利城」の歴史と城主についてですが、守護大名「土岐氏」の一族で室町幕府の「奉公衆」であった「久々利氏」が築城したようです。

 

「斎藤道三」の美濃支配に「斎藤氏」に近づくも、「織田信長」の美濃攻めに警戒して「武田信玄」と手を組みます。しかし「織田氏」と「武田氏」が手を結ぶと後ろ盾を失った「久々利氏」は「信長」の家臣で「美濃金山城」城主であった「森可成(よしなり)」に従います。

 

しかし1582年の「本能寺の変」後、「明智光秀」に呼応した「久々利氏」は、1583年に「可成」を継いだ「長可(ながよし)」によって暗殺され、「久々利城」は「森氏」のお城となりますが、関ヶ原の戦い後は廃城となります。

 

久々利城」の立地と縄張りは、枡形虎口の後ろに「三の丸」~「本丸」が段上に連郭式で並び、その後方には「二重堀切」+「堀切」を備えた「三重堀切」を備えています。更に「森氏」時代に修築されたのか、U字状に山頂から「竪堀」に続いて尾根伝いに「武者走り」を設けてその間にも「堀切」を仕掛けて麓へ広がりを見せています。

 

縄張図(現地に掲出)↓

縄張図(「可児市城跡ガイドブック ふらっと城跡めぐり」に掲載)↓

 

「郷土歴史館」でいただいた「可児市城跡ガイドブック ふらっと城跡めぐり」は周辺の城跡10城が掲載されていましたが、入口から城跡までも沢山の幟が立てられていて、「可児市」が力を入れているのが良く解りました。

 

周辺の山城一覧(「可児市城跡ガイドブック ふらっと城跡めぐり」に掲出)↓

 

階段を少し上るともう「枡形虎口」があり、その奥には「横堀」と左手には「切岸」が効いた「三の丸」跡の断面が見えます。「虎口」は一見左にもあるように見えますがその先は通れない「囮(おとり)虎口」と表現しているブログもあります。

 

「登城口」↓

「枡形虎口」↓

「枡形虎口」左脇にも「虎口」が空くが突き当り(「囮虎口」)↓

「枡形虎口」の中は「横堀」状の通路↓

「切岸」が効いた「三の丸」跡↓

 

「枡形虎口」を抜けると「井戸」があり覗き込むと中は「石積み」がされていて水が見えました。「井戸」がありますが、その周囲は「横堀」のように「三の丸」跡の淵沿いを描きます。

 

「井戸」跡(周囲はコンクリートで保護)↓

「井戸」の中は「石積み」で水が湛えていた↓

 

「三の丸」段と右の「土塁」の間にある「登城路」を上ると「三の丸」に出ます。下を見下ろしても高さを感じますし、上を見上げると「二の丸」「本丸」の段の高さが実感できます。

 

「三の丸」跡↓

「三の丸」跡から「二の丸」「本丸」各跡を見上げる↓

 

更に東側の「登城路」を上がると左へ階段が付いていて「二の丸」跡にでます。ここからは「本丸」跡の断面が真横から眺めることができ、「切岸」の絶壁差が際立っていました。

 

「三の丸」跡から「二の丸」跡への登城路↓

「二の丸」跡への「虎口」↓

「二の丸」跡から「三の丸」跡を見下ろす↓

「二の丸」跡↓

「二の丸」跡と「切岸」が効いた「本丸」跡横面↓

 

更に東側に付いている「登城路」を上がって行くと、右手には「二つの曲輪」が目に入ってきますが、上段の長い曲輪は「東出丸」との表示が書かれていました。

 

「東出丸」跡↓

 

登り切った所が「本丸」跡と「4曲輪(東出丸の上段)」跡を結ぶ「土橋」のようになっていて、「本丸」跡は南西に向けた細長い曲輪になっていました。「本丸」跡からは、今まで上がってきた「三の丸」「二の丸」の各跡がはるか下に貼りついているのが見えるとともに、遠方の眺めも素晴らしいでした。

 

「本丸」跡と「4曲輪(東出丸の上段)」跡を結ぶ「土橋」のよう↓

「本丸」跡(南東方向)↓

「本丸」跡から「二の丸」跡・「三の丸」跡を見下ろす↓

「本丸」跡からの遠景↓

 

「本丸」跡を後にして「天空見張台」と表示した看板の方へ上がって行くと細長い場所があります。両脇は厳しい「切岸」で守られている「見張台」で南側には「4曲輪」が見下ろせます。

 

「天空見張台」方向↓

「天空見張台」↓

「天空見張台」から「4曲輪」跡を見下ろす↓

 

「天空見張台」の北端下に施された「二重堀切」は北からの守りを抑止するもので、更に二つの「コブ」の北側から少し離れますが、もう一つ「堀切」があるので、まるで「三重堀切」の様相を呈しています。

 

「天空見張台」の北端から見下ろした「二重堀切」↓

「二重堀切」↓

一つ目の「堀切」(右が「天空見張台」)↓

一つ目のコブ(手前が二つ目の「堀切」、奥が「天空見張台」)↓

二つ目の「堀切」(横から)↓

二つ目のコブと二つ目の「堀切」と一つ目のコブを見る↓

三重目の「堀切」(二っ目のコブ上から見下ろす)↓

三重目の「堀切」(横から)↓

二つ目のコブと奥に一つ目のコブが見える↓

 

その「堀切」を渡ると、少し上あたりから幾筋もの「竪堀」が見られます。まるで水上スロープのように下へ下って行きますが、それが一本化して「横堀」乃至は「竪堀」のようになっていてその掘った土が尾根状に延びて「武者走り」となっています。

 

「竪堀」↓

「竪堀」↓

「竪堀」↓

「竪堀」↓

「武者走り」↓

 

その「武者走り」は、南西へ下って行き途中に「堀切」が見られます。しかしあまり深くないものでしたが、少し進んだ所に深い「堀切」が施されていて向こう側には「土塁」が見られます。

 

「武者走り」途中の浅い「堀切」↓

「武者走り」途中の浅い「堀切」↓

もう一つの深い「堀切」↓

もう一つの深い「堀切」↓

 

私はそこからバックして戻りましたが、あとから地図を確認すると、そのまま進むと麓近くには広い敷地になっている場所が有ったのが判りました。

 

「久々利城」の遠景↓

 

私は今来た道を戻り、「二重堀切」から「本丸」「二の丸」「三の丸」と麓迄まで戻ると、「デマンドバス」を予約した時間までまだ少しありました。

 

そこで「歴史館」の敷地をウロウロと廻ると、この場所は「江戸時代」に旗本「千村(ちむら)氏の陣屋」跡であることが案内板に記載されていました。一部石垣と庭園が残ると説明されてましたが、写真の中の「石垣」部分が遺構ではないかと思いました。現在は「可児郷土歴史館」と「保育園」敷地がその「上屋敷」部分であったそうです。

 

「千村氏陣屋」↓

この石垣が遺構か? ↓

この石垣が遺構か? ↓

この一帯が「千村氏陣屋」跡↓

 

これらを見学している内に、予約していた「デマンドバス」(タクシー会社の車)が「歴史館」玄関前に横付けされて待ってくれていました。12時40分発でしたが、私一人でしたし、途中も予約したお客様が居なかったので、少し早く出発してノンストップで下車予定の「ぎふワールドローズガーデン」まで走ってくれました。

 

事前の私の調べでは、そこから次に乗る乗合バス発着地である名鉄「明智駅」まで1.6㎞で歩ける距離でしたので20分弱で着きました。途中、もう桜が満開の場所もあり花見がてらの散策となりました。

 

「ぎふワールドローズガーデン」出口の桜は満開でした↓

「ぎふワールドローズガーデン」出口の桜は満開でした↓

 

次回のブログでは「美濃金山城」をお届したいと思います。

 

 

 

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