3/19(火)に、「青春18きっぷ」を使用して「上郡駅」に向かいお城巡りに出かけました。

 

行き先は「白旗城」(兵庫県赤穂郡上郡町)で、関東の城友夫妻と「白幡城赤松口」で待合せをする約束をしていました。私は、「上郡駅」から「智頭急行線」に乗換え「神野原円心駅」から徒歩で待合せ場所に向かい9時半に合流する予定でした。

 

ところがです。

 

「姫路駅」に「新快速」で順調に着いて乗換えするのですが、当駅を折り返し発車する「山陽本線普通電車」の遅れで「上郡駅」発に到着が9時となり、「上郡駅」を8時50分発の智頭急行の普通電車に乗れませんでした。

 

「上郡駅」では乗継時間が16分もあったのですが、電車が25分遅れた為、既に電車が出た後でした。JRと智頭急行は特急の総合乗り入れはしていますが、普通電車はJRの遅れを待ってくれずに発車してしまったのです。

 

次の電車は10時27分まで無いとのこと、城友にその旨を伝えて先に出発してもらうようにお願いしました。

 

1時間半遅れの登城となると、「本丸」で相当長時間待ってもらわないといけないと思い、暫くどうしようかと考えていたのですが、駅前の「観光案内所」でレンタサイクルできないものかと思い、そこへ向かいましたところ、9時半からの営業時間でしたが、気持ちよく自転車の貸し出しをしてくれました。

 

スマホマップで「白幡城赤松口」までの距離と所要時間を見ると約7㎞で30分弱でしたので、登城前の足の屈伸運動も兼ねて漕ぎ急ぎました。

 

前置きが長くなりましたがその前に、「白旗城」の歴史と城主をここで記載しておきます。当城は「赤松円心(則村)」が1336年に築城し、西国へ敗走する「足利尊氏」を追いかける「新田義貞」6万の軍勢を、わずか2,000名の兵士で50日余り防ぎ止めたといわれ、難攻不落のお城です。

 

この働きで、勢力を盛り返した「尊氏」は、後の「湊川の合戦」で「楠木正成」を破り「室町幕府」を開きます。この時の功績で、「円心」は播磨国守護として幕府の重鎮となります。

 

「嘉吉の乱」で「赤松惣領家」が滅んだ後も「赤松氏」の重要拠点として使用され、南北朝時代~戦国時代にかけても一度も落城したことのないお城です。

 

白旗城」の立地と縄張は、標高440mの「白旗山」の山上にあり、全長470mにも及ぶ「梯郭式縄張り」で、「本丸」「二ノ丸」「三ノ丸」「櫛橋丸」「馬場丸」「蔵屋敷」「大手郭」の曲輪を備え、「土塁」「堀切」「石積み」が沢山残っています。

 

縄張図↓

平面図(現地掲出分)↓

 

さて私は、「白幡城赤松口」を9時50分にスタートして、約半時間遅れで城友夫妻を追いかけました。

 

「西播磨の山城」パンフによると登城には「体力度5段階中の5」「技術度5段階中の4」「対象は中・上級者」になっていて、かなりシンドイ山城だとの話を聞いていたので、今回城友夫妻と共に登城できるならばと意を決したわけですが、結局1人での登城となってしまいました。

 

「西播磨の山城」パンフ↓

 

「登山口」を入って暫くすると「白幡城山麓五輪塔群」「栖雲寺(せいうん)寺跡 」の説明書きが立っていましたが先を急ぐためにパスして進みました。登城路脇を小川が流れていましたが、それに沿って石混じりの「土塁」状のものが築かれていました。

 

「登山口」(「落ちない城 白旗城」の幟)↓

登城路↓

 

登城路をどんどん上がって行くと「嘆きの岩盤」と呼ばれている巨大な一枚岩が立っていて、当時は新田軍6万の兵が悩ませたといいます。

 

「嘆きの岩盤」と呼ばれている巨大な一枚岩↓

 

そして「石積み」がされている場所が現われ、そこから数m上昇する「竪石垣」が見られ、更にここから先は、道に苔むした岩や石がゴロゴロと転がっている所に入ります。

 

「竪石垣」↓

「竪石垣」↓

「竪石垣」↓

 

写真では見ていたのですが、現実にその中に居ると苔の緑色がまるでジャングルの中の木々の間を佇んでいるような異次元の感覚になります。

 

当時は、ここの谷上から、巨石を砕いた岩や石を容赦なく新田軍に雨あられのように転がしたのではないのかと思うぐらいの石や岩が積もっています。

 

「谷落としの岩」↓

「谷落としの岩」↓

「谷落としの岩」↓

「谷落としの岩」↓

「谷落としの岩」↓

 

私は、この上を滑らないようにシッカリと踏みしめながら上がって行きました。この間15分位でしょうか、異次元の世界観を味わうと、三叉路になっていてベンチが置かれていました。緊張のあまり、喉がカラカラとなったのでそこで水分補給をして左手へ進みました。

 

ずんずん急斜面になって上を見上げると少し明るくなった所から「九十九折れ」が続きます。明るい場所は、もう一方から登城できる道との合流点でした。

 

合流点から見える遠望↓

 

いよいよ「主郭」の城域に入ってきたようで、急な尾根伝いに登って行くと少し岩盤状の「堀切」があり、その上には「大手虎口」が両脇を「石積み」で固められて開いていました。

 

急な尾根伝い↓

岩盤状の「堀切」↓

「大手虎口」脇の「石積み」↓

 

ゴツゴツした岩が集まる「磐座」を経て「櫛橋丸」跡へ上がる道を進み、かなり急な斜面を必死になって上がって行くと頂上部分に出ました。

 

ゴツゴツした岩が集まる「磐座」↓

「櫛橋丸」跡への入口↓

 

そして、先発していた城友夫妻に追いつくことができました。「櫛橋丸」跡は麓から一番高く見える場所らしく赤松の集落や千種川が良く見える場所です。

 

「櫛橋丸」跡↓

「櫛橋丸」跡からの眺望↓

 

ここから城友ご夫妻と一緒に廻ることができました。

 

最も高い場所から「段曲輪」を下りていくと再び「段曲輪」を上がって行きますが、その底が「堀切」だったようです。

 

「櫛橋丸」跡から「段曲輪」跡を下る↓

 

「段曲輪」を上り切った所に「二ノ丸」跡の案内が立っていましたが、更にその上には広い敷地が拡がっていたのでその場所が「二ノ丸」跡で、案内があった場所は「腰曲輪」跡ではないでしょうか。

 

「二ノ丸腰曲輪」(奥の広い敷地が「二ノ丸」跡か)↓

「二ノ丸」跡↓

 

「二ノ丸」跡の北東方向には細長い「馬場丸」が伸びていて東下は「帯曲輪」跡になっていました。

 

「馬場丸」跡と「帯曲輪」跡(右下)↓

 

「馬場丸」の先端は「本丸」跡を南西側に取巻く「腰曲輪」跡の「虎口」があり、二段の「腰曲輪」を上がると「本丸」跡の「枡形虎口」になっています。「本丸」はかなり堅固に守られているように思いました。

 

「本丸下段の腰曲輪」跡の「虎口」↓

「本丸」跡下の「腰曲輪」跡↓

「本丸」跡の「枡形虎口」↓

「本丸」跡の「枡形虎口」(「本丸」跡から見下ろす)↓

 

「本丸」跡の北端にはかなり古くから立てられていると思われる「白旗城跡」碑があります。

 

「本丸」跡↓

かなり古い「白旗城跡」碑↓

「本丸」跡北西下の「腰曲輪」↓

「本丸」跡からの遠望↓

 

ここから北側に向けて5段の「段曲輪」を下っていった所が「三ノ丸」跡で、北端には「土塁」が築かれていました。

 

「三ノ丸」跡に向けて5段の「段曲輪」↓

「三ノ丸」跡から「段曲輪」跡を見上げる↓

「三ノ丸」跡北端の「土塁」↓

 

その奥を覗き込むと険しい「切岸」を施しその奥には深い「堀切」底が見えます。下りる道が付いていたので「堀切」底へ下りました。「三ノ丸」跡を見上げるとかなりの高さを実感でき守備力の高さが窺えます。

 

「切岸」が施された崖と「堀切」底↓

「堀切」底を覗く↓

「堀切」底↓

 

私達は、一旦「二ノ丸」跡へ戻り、いよいよ大探検隊として活動を開始しました。

 

「二ノ丸」跡から東へ下りた所にある「侍屋敷」跡は、「侍屋敷」が並んでいて生活用水が必要であったのか、水源である「井戸」跡が沢山の石に囲われて存在していました。また、この平面には多くの残石が見られました。

 

「侍屋敷」跡の残石↓

「侍屋敷」跡内の「井戸」跡↓

 

「侍屋敷」跡の南面を見るべく少し道らしき所を下りると、南面にはビッシリと「石積み」が貼りついています。これには興奮が抑えきれず、南面を南東方向にカニ歩きしてドンドン横移動していくとそれ以上の「石積み」が見られました。

 

「蔵屋敷」跡南面~南東面に貼りつく「石積み」↓

「蔵屋敷」跡南面~南東面に貼りつく「石積み」↓

「蔵屋敷」跡南面~南東面に貼りつく「石積み」↓

「蔵屋敷」跡南面~南東面に貼りつく「石積み」↓

「蔵屋敷」跡南面~南東面に貼りつく「石積み」↓

 

そこだけでも興奮がピークに達しているのに、城友夫妻はまだまだ凄いところがあるとの情報を得ていたのでそこを目指していきました。

 

もう、道なき道をカニ歩きや木の枝にぶら下がり歩きをしながら横移動して約15分くらいでしょうか、平坦な敷地に到着しました。その場所は「大手郭」跡の最上段の場所のようで当郭内でも一番広く「水源」にもなっていました。

 

「蔵屋敷」跡と「大手郭」跡の間(横へ移動)↓

「大手郭」跡の残石↓

 

その平坦な敷地の南面を見るべく下へ枝を掴みながら下りると、あるわ! あるわ! 「石積み」が二重、三重に敷地南面を覆いつくしていました。

 

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

 

更に、「段曲輪」が南に向かって続きます。段の南面が現われる度に「石積み」が目に飛び込んできます。もう興奮しすぎて城友夫妻と共にワイワイガヤガヤと大盛り上り!

 

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

 

何段の段曲輪だったか分らないぐらい下へ下りて行ったので、上がって行くのが大変だとは分かっていましたが、見れるだけ見よう「虎口」らしき所まで下って行きました。

 

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

「大手郭」跡の「石積み」↓

 

これらの写真は何段目なのかわかりませんので、アットランダムに掲載しています。

 

「大手郭」跡の「虎口」の「石積み」か? ↓

「大手郭」跡の「虎口」の「石積み」か? ↓

 

ただ、この先がどこに続いているのかは地図を見ても分からず、名称だけが「大手郭」跡だということだけを理解しましたが、「大手郭」内の「大手道」に沿って段々に「石積み」が築かれていたということだと思いました。

 

「新田軍」は多分、「搦手」であった「嘆きの岩壁」「谷落としの岩」から攻めたことで余計に打撃をうけたのかもしれません。

 

最初の「大手郭」跡の広い敷地まで戻りながら、もう一度目の前を覆う「石積み」を楽しみながら上へ上がって行ったので疲れもなく戻れました。しかし、そこから「蔵屋敷」跡へ戻るのに、道なき道を歩いたので少し苦労してやっと戻ることができました。

 

「石積み」にお腹いっぱいになって、下山をしていきました。

 

「谷落としの岩」をくだっていくのにはかなり神経を使いながら下りていき、もう一度「竪石垣」をジックリ眺めるとかなり続いているのが判明、更にその少し下の右手に「石積み」で櫓台のような四角いモノを見つけました。良く見るとスクエアな「石積み」中が「井戸」だということが判り、最後にいいものを見つけたと三人で大喜びしました。

 

「石積み」で囲われた「井戸」↓

「石積み」で囲われた「井戸」↓

 

「赤松口」には14時10分頃戻ってきて、車で姫路へ向かう城友夫妻とはそこで別れました。一人で登城するよりも、同伴者がいることで気が付かなかった遺構を見つけたり、色々と考えを述べたりできて楽しいひと時となりました。

 

「赤松口駐車場」から見る「白幡城」(最高峰が「櫛橋丸」跡)↓

「白幡城跡」(現地に掲出)↓

 

私はレンタサイクルで「上郡駅」へ向かい約30分かけて到着、お腹が減ったので「観光協会」のベンチでおにぎりを食べ、15時34分の電車に乗り込みました。

 

山陽本線車両(「相生」行普通電車、「上郡駅」にて)↓

 

「西播磨のお城群」の中では、中・上級者対象のお城で、登城を躊躇していましたが、今回の登城を糧にして今度は、「長水城」へチャレンジしいたいと思うようになりました。

 

 

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