先日3/6~8の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)の投稿を順次してきて、いよいよ最終日(3/8)の最終訪城のお城「松本城」(長野県松本市)です。前回のブログは「ニの丸」からの眺め、「市役所展望室」からの眺めを中心にお届けしました。

 

今回は、いよいよ「本丸」跡からの「天守群」を見上げ、更に建物の内部に潜入して江戸時代の雰囲気を味わいたいと思います。

 

松本城」の歴史と城主については、前回記載しましたがもう一度掲載しておきます。

 

1504年に「小笠原氏」支族の「島立貞永」が「深志城」を築いたといわれています。1550年に「武田晴信」が「深志城」を落として北信濃制覇の拠点としますが、1582年に「織田軍」の侵攻で「武田氏」は「深志城」から撤退、替わって「木曽義昌」が入城します。

 

「本能寺の変」の動乱に乗じて、「信玄」に追われた「小笠原貞時」の三男「貞慶」が再入城して「松本城」と改名しました。1590年に「小田原攻め」後、「徳川家康」の関東移封に伴い「小笠原氏」も下総へ移ると、「豊臣秀吉」は「徳川氏」から出奔した「石川数正」に入封させます。1593年には、その息子「康長」が天守建築に着手します。

 

1613年に「小笠原秀政」が入城した後は、譜代大名が入封し「戸田氏」「松平氏」「掘田氏」「水野氏」と変遷して1726年に「戸田光慈(みつちか)」が入封した後は、幕末・維新まで「戸田氏」が統治をします。

 

1872年に「天守」「櫓」が払い下げられましたが、「天守」は「市川量造」らの尽力で破却を免れました。

 

松本城」の立地と縄張りについても再度記載しておきます。

北側が高く南に向かって傾斜がある「平城」で、防衛は三重の「水堀」と「石垣」や「土塁」で囲われています。

 

中央に「本丸」を置き、東から南、西にかけて「二の丸」を配置し、それらを取り囲むように「三の丸」を置いて「上級家臣」の屋敷を配置しました。

 

三重目の「惣堀」を隔てて5ケ所の虎口で接続し、南の「大手門」は枡形構造、それ以外の門前には「丸馬出」を備えていました。

 

「松本城下町復元図」(パンフレット)↓

「松本城案内図」↓

 

 

「二の丸」跡からの眺めを堪能した後は、復元「黒門」からの入城となります。

 

「黒門」は、城内側の「一の門=渡櫓門」、「二の門=高麗門」と「袖塀」で囲われた「枡形門」で、各々1960年、1990年に復元されました。「天守群」と同様に「下見板張り」型式で、「渡櫓門」には「続櫓」が付随しています。

 

復元「黒門」↓

復元「黒門」城内側の「二の門=高麗門」↓

復元「黒門」桝形内の「袖壁」↓

復元「黒門」城内側の「一の門=渡櫓門」と「続櫓」↓

復元「黒門」城内側の「一の門=渡櫓門」↓

 

そこを抜けると「本丸」跡で、広い芝生が敷き詰められている「本丸御殿」跡です。真正面から眺める「天守群」は、「大天守」の右は「渡櫓」で連結された「小天守」が立ち、「大天守」の左側は「辰巳隅櫓」と「月見櫓」が重なる為、「大天守」を中心にした左右はアンバランスなのですが、それでいて黒ずくめの建物群がどっしりとした感じがとてもいいです。また、東側でも「月見櫓」の赤色の「高欄・廻縁」がアクセントになっています。

 

左右アンバランスだがドッシリ感がある「天守群」(「本丸御殿」跡越し)↓

 

暫しの間、ジックリ眺めた後、北側の通路を歩いて、北東方向から「天守群」を眺めながら歩きました。「本丸」跡北東隅に「北不明門」跡があり、それに続いて「土塁」が築かれていて、「埋門」跡に繋がりますが、現在「埋門」跡から架かる赤い「埋橋」は通行禁止となっています。

 

「北不明門」跡↓

「本丸」跡北側の「土塁」↓

「本丸」跡北東方向からみた「天守群」↓

 

「小天守」を下から見上げると、無破風で「下見板張り」には沢山の「狭間」が並んでいるのが見えます。この「小天守」は、「犬山城天守」の二重部分までと日本で一二を争う古い天守建築らしいです。

 

「渡櫓」と「小天守」↓

「小天守」(「無破風」で多くの「狭間」が並ぶ)↓

「小天守」の「石落とし」↓

「大天守」と「小天守」↓

「大天守」には「向唐破風」が付く↓

「月見櫓」と「辰巳附櫓」(「小天守」前から)↓

 

「天守群」への入城は、「渡櫓」から靴を袋に入れて入ります。入って階段を上がった右側は「小天守1階」ですが、耐震工事ができていないので立入禁止となっていました。以前は入ることができましたが、最近の地震の多さには対応が遅れているようです。

 

「渡櫓」入口↓

「小天守1階」(丸柱が見える)↓

「渡櫓」1階↓

 

入って左手の階段を上がると「大天守1階」に入ります。1階は、周囲が「武者走り」となっていますが、真ん中の「身舎(もや)」は他のお城とは異なり、一段高くなっているのが特徴です。「武者走り」を進んでいくと壁にが多くの「鉄砲狭間」や「矢狭間」が並んでいて戦闘に備える態勢が整っています。

 

「大天守1階」↓

「大天守1階」の「身舎」は床が1段高い↓

1階「武者走り」沿いの壁には「鉄砲狭間」と「弓狭間」を装備↓

 

1階の柱は角材で、「手斧(ちょうな)」によって削られた跡が綺麗に残っています。因みに「小天守1階」は丸柱が多く使用されているそうです。

 

「手斧(ちょうな)」遣いの1階の柱↓

 

2階も1階同様に「武者走り」と「身舎」の構造で、窓は外側は「突き上げ窓」ですが中は木材による「連子窓」となっています。

 

2階の「武者走り」↓

2階「身舎」の柱は「角柱」↓

2階の「連子窓」と「突き上げ窓」↓

3階の床部分↓

2階から3階への階段↓

 

3階は、二重目の屋根下に隠れた階で、南側しか窓が無く天井も低くて暗いフロアとなっていましたので、普段は倉庫、有事には武者溜まりとして使われたようです。

 

3階(二重目の屋根下に隠れた階)↓

 

3階から上階へ上がる階段は狭く急になりますので、上る人と下る人が交互の一方通行となり係の方が整理をしていました。そして、階段での写真撮影も危険なので禁止となっていました。

 

4階ですが、今までの階とは違ってフロアの約半分くらいが、城主が座る「御座の間」となっていて「御簾」を隔てて設けられていました。そこは、「書院造り」風で天井が高く周囲から光が入り、全て桧造りでかんながかけられていますし、「鴨居」の上は小壁でていねいな造りになっています。しかしこの場所は、戦時に城主が籠る場合は、戦闘の最終局面を迎えた時に使用する所です。

 

戦闘の最終局面を迎えた時に城主が座る「御座の間」↓

 

4階から5階にかけては、フロアの高さが4mもありますので、5階へ上る階段は非常に急になっています。

 

5階は、東西に「千鳥破風」が南北に「唐破風」が取り付けられていたので、「破風入込の間」があり、窓からは全方向を見れることができたので、戦時には作戦会議室として活用されるようになっていました。

 

5階(「破風入込の間」が見える)↓

5階(「唐破風入込の間」が見える)↓

5階の「突き上げ窓」から「本丸御殿」跡を見下ろす↓

 

最上階の6階へ上がる階段の途中には「踊り場」が備わっていて、上がると明るい部屋となっています。本来は「高欄・廻縁」が建物周囲をグルリと取巻くケースが多いですが、ここでは、その「廻縁」を建物内に取り込んだ形になっていますので、5重目と4重目の大きさが同じになっています。その関係で、遠くから「大天守」を眺めると頭でっかちに見えるのです。

 

5階から6階への階段には踊り場がある↓

最上階(「廻縁」が中に取り込まれている)↓

「大天守」の4重目と5重目が同じサイズ↓

 

最上階にも「鉄砲狭間」や「矢狭間」が並んでいて攻撃を仕掛けられるようになっているのには驚きです。天井は、新しい「天守」では「天井板」が貼られている場合が多いですが、こちらは「天井板」を貼らずに屋根瓦の重さに耐えれるように太い梁を井桁状に組む「はね木工法」を用いています。

 

「はね木工法」の天井↓

 

その井桁の間には、「二十六夜神」を祀っていますが、これは1617年に入城した「戸田氏」が始めた行事で、月例26日の月を拝む儀式となっています。

 

井桁の間に祀られた「二十六夜神」↓

 

最上階からの眺めは良好で、東下に目をやると雪を被った「本丸御殿」跡の芝生が綺麗に見下ろせます。また西方向に目をやると遠くには「北アルプス連峰」が山並みを連ねています。

 

東下に目をやると雪を被った「本丸御殿」跡の芝生が見える↓

西方向には冠雪の「北アルプス」の山々が見える↓

 

「大天守」2階まで下りると、「辰巳附櫓」の2階に繋がります。ここには、外からも見えていた「花頭窓」が壁に嵌め込まれていて、北側の窓からは「大天守」の瓦が良く見えます。

 

「辰巳附櫓」の2階↓

「辰巳附櫓」2階の「花頭窓」↓

「大天守」の「丸瓦」と「桟瓦」↓

 

続いて「月見櫓」に入ります。ここは、3代将軍「徳川家光」が上洛の帰り道、善光寺参詣の途中に松本に立ち寄るとの内意を受けて、当時の城主「松平直政」が将軍接待の為に1633年頃に急遽普請にかかったという櫓です。

 

寄棟の屋根の「月見櫓」(後ろは「辰巳附櫓」、「本丸御殿」跡から見る)↓

 

月見をする櫓で、北・東・南の「舞良戸(まいらど)」を外すと三方が吹き抜けとなります。周囲は赤い「高欄・廻縁」で天井は船底形をしていて他の建造物とは異なった開放的な造りとなっています。

 

「月見櫓」内、「舞良戸」が立っている状態↓

赤い色の「高欄」↓

「月見櫓」の天井は「船底形の天井」↓

「月見櫓」1階出入口↓

「月見櫓」(下から見上げる)↓

 

「小天守」の中だけは見ることができませんでしたが、シッカリと中の観賞を堪能して「本丸御殿」跡に下りてきました。

 

今回は時間がタップリとあったので、かなり詳細に「松本城」を探索することができ満足できました。

 

「松本駅」までは徒歩で移動して14時37分発の「中津川行」の電車に乗り込みました。車両は2両連結で座席もクロスシートの「JR東海」の車両で、2時間41分の所要時間でしたがゆったりと過ごすことができました。

 

JR東海車両「中津川行普通」(「松本駅」にて)

 

「中津川駅」で今度は17時25分発の「名古屋行快速」電車に乗換えましたが、今度はロングシートでしたので、車中で食べようと松本駅で買っていたサンドイッチは連結横の座席で食しました。幸いにも、暫くの間は空いていて私の前に座る乗客もいなかったので、食べきることができました。

 

「名古屋行快速」(「中津川駅」にて)↓

 

今度は、東海道本線「金山駅」始発で19時11分発の「米原行快速」に乗換え、「金山駅」始発の電車であったので名古屋駅からの帰宅客がかなりあったけれども、ずっと「米原」まで座って行くことができました。

 

「米原行快速」(「米原駅」にて)↓

 

最後に「米原」発20時54分発の新快速で22時17分に「大阪駅」に着きました。

 

今回のお城巡りの旅は、2日間は積雪との戦いで大変苦労したお城もあり、山城の防御施設などは雪で見れない所も多々ありましたが、「真田氏」や「武田氏」のお城を中心に巡ることによって、歴史的な背景をインプットできる旅となったことで非常に満足できるお城巡りとなりました。

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー