先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)の投稿を順次しています。

 

前回のブログでは「要害山城」をお届けしましたので、そこから車で10分もかからない所にある「躑躅ケ崎(つつじがさき)館」(山梨県甲府市)へ向かいました。当城は、2006年に訪城して以来の18年ぶりです。

 

車を正面脇の駐車場に止めて、南側の「武田神社」の正面であり「堀」に跨る赤い橋を渡り、更に両脇の石垣の間を抜けて鳥居のある所へ石段を上がっていきます。

 

「武田神社」の正面↓

 

この正面の石垣は「躑躅ケ崎館」のモノではなくて、本来この箇所は両脇から続いてくる「土塁」でしたが、「武田神社」が創建されたときに、「土塁」を潰して「石垣」にしたものです。

 

「土塁」を潰して「石垣」にした↓

南側の「土塁」(これが南側全体に築かれていた)↓

 

ということを知った上で、「躑躅ケ崎館」の歴史と城主について触れておきたいと思います。1519年に「武田信虎」が石和からここに館を移したことから始まります。その後、「信玄」「勝頼」と「武田氏」の当主の居館として使用されました。「武田家」が滅亡した後は「文禄年間(1593~96年)」に「甲府城」が築城されるまでは、当館一帯は、領国の政治、経済、文化の中心地として発展しました。

 

躑躅ケ崎館」の縄張りは、一辺が200m四方の「主郭」である「中曲輪」「東曲輪」を中心に「堀」を巡らせ、周囲に「西曲輪」「味噌曲輪」「稲荷曲輪」「御隠居曲輪」「大手」「梅翁曲輪」等の「副郭」を配置しました。「主郭」の北西隅には「天守台」があるようですが「天守」が建っていたという記録はないようです。

 

「武田信玄」の有名な「人は石垣、人は城」の文句に象徴されるように人心を掌握することが大事で「巨大なお城には住まない」というコンセプトを踏襲したようです。

 

曲輪図(平面想像図、現地にて掲出)↓

想像「絵図」(現地に掲出)↓

「中曲輪」「東曲輪」の想像図(現地にて掲出)↓

 

さて、現在「武田神社」の境内になっている「躑躅ケ崎館」跡へ石段を上がりますと参道の正面には「武田神社」の拝殿、本殿が縦に並びます。「武田神社本殿」真ん中から左手(西側)が「中曲輪」跡で現在は主に「社務所」や「能舞台」が建ち、右手(東側)には「宝物殿」などが建ち、「本殿」右脇には「信玄御使用井戸」が残る他に、「東曲輪」跡内に建つ「能舞台」西側には「庭園」跡があります。

 

「武田神社拝殿」↓

「中曲輪」跡↓

「東曲輪」跡↓

「信玄御使用井戸」↓

「能舞台」西側の「庭園」跡↓

 

まず私は、「中曲輪」跡の西側に残る「中曲輪」と「西曲輪」を繋ぐ「土橋」を渡って「西曲輪」跡へ入りました。この「土橋」は両曲輪の間の「堀」を渡る橋ですが、「土橋」北面には「石積み」が見られます。

 

「中曲輪」跡西側に残る「中曲輪」と「西曲輪」を繋ぐ「土橋」脇「土塁」↓

「中曲輪」跡西側に残る「中曲輪」と「西曲輪」を繋ぐ「土橋」脇「土塁」↓

「中曲輪」と「西曲輪」を繋ぐ「土橋」(「中曲輪」跡方向)↓

「土橋」下の「石積み」↓

 

橋を渡った敷地「西曲輪」跡は、嘗て建っていた「藤村記念館」が移転したこともあって、非常に広々と見渡せます。周囲を囲う高い「土塁」もシッカリと見え、南側には「枡形虎口」の「土塁」も残っていて当時その南側には「梅翁(ばいおう)曲輪」という「馬出し」的な曲輪がありましたが、現在は住宅地になっています。

 

南側「枡形虎口」の「土塁」(門跡の向こうは「梅翁曲輪」跡)↓

南側「枡形虎口」の「土塁」(「西曲輪」跡方向)↓

「西曲輪」跡の「南虎口」から東方向の「堀」と「中曲輪」跡↓

 

「西曲輪」跡は中央辺りで少し段になっていて北端にも「枡形」になった「土塁」を構えた「北虎口」を形成しています。その「土塁」は規模も大きく、部分的に「石積み」が見られます。

 

「西曲輪」跡にある「井戸」↓

「西曲輪」跡の中央辺りの段↓

「西曲輪」跡の「北虎口」へ↓

「西曲輪」跡の「北虎口」↓

「西曲輪」跡の「北虎口」↓

 

北東隅の「土塁」は特に高さと幅を持たせたモノになっていて、その上に上がると「枡形」の「北虎口」の形が良く解ります。また、曲輪を取巻く「北堀」は水が枯れていますが、シッカリとした「土橋」ができていて、それを「土塁」からも眺めることができます。

 

「西曲輪」跡の「北虎口」の枡形↓

「北虎口」北側の「土橋」↓

 

そして最も興味深かったのは、東側の「堀」越しの「中曲輪」跡北西隅にある「天守台」と言われている所が覗けるということでした。まずは、「中曲輪」跡周囲の「土塁」上に生えている木々の透かしの間から「天守台石積み」らしきモノが見えたので、ワクワクしました。

 

「中曲輪」跡北西隅にある「天守台石積み」か? ↓

 

更に北西隅の「土塁」が「堀」に向かって伸びていきますが、その下の方には「石積み」の残骸と思われる何個かの石が落下していたり、「北堀」との接地部分には「石積み」が築かれている光景が見下ろせます。

 

「中曲輪」跡の北西隅と「堀」(「西曲輪」跡の「土塁」上から)↓

「中曲輪」跡の北西「土塁」中腹辺りに転がる多くの石↓

「中曲輪」跡の北西「土塁」下には「石積み」↓

「中曲輪」跡の北面「土塁」の堀との接地部分にも「石積み」↓

 

「信玄」のお城には「天守」等の重厚なモノは無いというのが、「信玄」の前述した文句から窺えるのですが、本当にそうだったのか・・・という痕跡を見せつけられたようでした。ただ、この痕跡は、「武田家」滅亡後補強で築かれた可能性もあるので、どうでしょうね~

 

今後発掘調査などが進むと、それが判る遺構がでくるかもしれませんので、期待が募ります。

 

私は「西曲輪」跡の北東隅「土塁」から下りて、「北虎口門」跡前の「土橋」を渡り「味噌曲輪」「稲荷曲輪」「御隠居曲輪」が並ぶ「北曲輪」跡を見に行ことしましたが、現在は「発掘調査中」で立入禁止となっていましたので、そこから眺めるしかできませんでした。

 

しかし、「味噌曲輪」跡の「土塁」や発掘調査中の「石積み」等を見ることができて良かったです。また、先ほど登城してきた「要害山」も真正面にドンと居座っていました。

 

「味噌曲輪」跡の「土塁」↓

「味噌曲輪」跡の「石積み」↓

「御隠居曲輪」跡?の石積み ↓

手前の山が先ほど登城してきた「要害山城」がある「要害山」↓

 

「西曲輪」跡を後にして「東曲輪」跡から「大手」跡へ移動し、「大手虎口(東虎口)門」跡まで来ました。両脇を「土塁」で挟まれた「虎口」前には「西堀」を渡る「土橋」があり、その前にはこの一帯の修復事業工事を経て修復された「大手石塁」が見られます。

 

「大手虎口(東虎口)門」跡↓

修復事業工事を経て修復された「大手石塁」↓

 

この東側一帯は「武田家」滅亡後に「豊臣氏」或いは「徳川氏」の手で修復した場所であるらしく、発掘調査を行った結果に基づいて修復事業が進められています。

 

前述の「大手石塁」は石垣に「裏込石」を使用されていることから「武田氏」時代のモノでないことが判明、しかしその下には「三日月堀」の痕跡が出てきたことから、「武田の丸馬出し」の上に「豊臣氏」又は「徳川氏」が修復したことが分かったとのことでした。

 

「裏込石」が採用されていた修復「大手石塁」↓

 

東側一帯には、前述の「大手石塁」以外にも「土塁」の修復、「惣堀」「惣堀北側虎口」の修復が行われていてその姿が目にできるのも嬉しいです。

 

修復「土塁」↓

「惣堀」跡と修復「土塁」↓

修復「惣堀」↓

修復「惣堀北側虎口」↓

修復「惣堀」と「土塁」↓

「厩」跡↓

 

18年前に訪城した時はまだ発掘調査も進んでいなかったことから、「武田神社」でお参りだけした思い出だけでしたが、以前に比べると見学できるエリアや城郭の遺構スポットも増えて、お城巡りをしたという実感が湧いた訪城となりました。

 

「躑躅ケ崎館」跡を後にして、車を駐車場へ戻して「甲府駅」へ向かいました。

 

「甲府駅」前北広場には、かなりキャシャで頬がこけ厳しい顔をした「武田信虎」像が立っていましたが、「甲府駅」前南広場に坐する恰幅ある「武田信玄」像との対比が余りにもありそうな気がしてならなかったです。

 

「武田信虎」像↓

「武田信玄」像(2021年に撮影した写真)↓

 

「甲府駅」を14時50分発の普通に乗車して次の登城「新府城」の最寄り駅「新府駅」へ向かいました。

 

 

 

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