大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで、2023年の年末に「家康」が亡くなりドラマが完結したものの「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを続けてきました。

 

「家康」逝去後の出来事

強力なパワーを持った「家康」を失った「徳川(江戸)幕府」としては、その後暫くの間は「徳川家」に対する不穏な動きが起こらないか、特に朝廷と結びつきを持った動きがないか、畿内の動向を監視するとともに、西国に多くいる外様大名の動きを監視と抑制を行う為に、「大坂城」周辺から西側にかけて或いは朝廷に近い京都との間にも、二代将軍「秀忠」は引き続き「天下普請」で築城を命じています。

 

・1617年 高槻城改修

・1618年 尼崎城築城(1617年築城開始)

・1619年 二条城改修

・1620年 明石城完成(1619年築城開始)

・1622年 福山城完成(1619年築城開始)

・1625年 淀城完成  (1623年築城開始)

 

以上の様な「家康」逝去後、暫く続く「西国外様大名」の動きを封じる為の「徳川(江戸)幕府)」によるお城づくりについて、「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズの「特別編」として、前回ブログからお届けしています。

 

本日は、「大坂」の西エリアを抑えるべく1620年に新たに築城した「明石」(兵庫県明石市)を紹介します。

 

 

「明石城」の位置↓

 

 

『連郭式曲輪の“本丸”~“三の丸”まで高石垣で固めた「明石城」(兵庫県明石市)』

 

「明石城」の歴史と城主

「大坂の陣」の戦功で明石、三木など10万石を与えられた「小笠原忠真」は、「徳川秀忠」から西国大名に睨みを効かせる目的で明石にお城を築くよう命じられました。

 

1619年に「建部政長」等を普請奉行として派遣し、普請費用も幕府が全面的に負担し、「三木城」「船上(ふなげ)城」「高砂城」等の部材も使用しながら1620年に完成しました。

 

因みに、「小笠原忠真」は、「徳川家康」の曾孫にあたります。

1632年「忠真」は、「小倉城」へ移封となりますと、その後も抑えとして「戸田松平家」「大久保家」「藤井松平家」「本多家」等の譜代大名が入城し、1682年以降は「越前系松平家」の「松平直明」が入城し、以降「越前松平家」が幕末・維新まで領有します。

 

縄張り

お城は、西側から東側へ「捨曲輪」「稲荷曲輪(西の丸)」「本丸」「二の丸」「東の丸(旧三の丸)」が一直線に並ぶ「連郭式」縄張りで、特に「本丸」から「東の丸(旧三の丸)」にかけては、南側、北側ともに高石垣で防御を固めています。また北側には堀を伴う「北の丸」を置いて北側からの守りも固めています。

 

また、この連郭式の高石垣の南側の平地は「本三の丸」と呼ばれて「下屋敷」となっていましたが、1628年の火災以降は、「本丸」に御殿を再建せずこの場所に「居屋敷」を建てて藩主の御殿替わりにします。

 

最後の砦となる「本丸」~「東の丸(旧三の丸)」の各曲輪は、万一、西国外様大名が攻めてきても、「明石城」で食い止めるとの強い意思が感じられるお城となっています。

 

「天守」は建てられませんでしたが、「天守台」だけを設けて五重「天守」が建てられる規模の大きさで、「坤櫓」の後ろに築かれています。

 

ただ睨みを効かす為に、本丸の四隅には三重櫓を建て、二重櫓6基、平櫓10基の大城郭でした。

 

縄張り絵図↓

 

本丸内の現存「三重櫓」

当初の「本丸」は「本丸御殿」が置かれ四隅に「三重櫓」を配置し北から東、南側にかけて「多門櫓」が築かれていたようですが、現在は、「巽櫓」と「坤櫓」の二基が残るだけで、いずれも重要文化財に指定されています。

 

「本丸」跡↓

周囲を取巻く石垣(多門櫓台跡)↓

 

前述のように、対「西国大名」対策として急ごしらえの築城だったこともあり、「坤櫓」は「伏見城」から移築されたものだそうです。

 

四基の内、三基は明治34年まで残っていましたが、「乾櫓」の痛みが激しくて解体されました。また、1995年の阪神淡路大震災では櫓台の崩落と櫓の傾きがあったことから、曳家工法で櫓を移動させて石垣の積みなおしがされ、現在は元の位置に復元されています。

 

乾櫓台↓

艮櫓台↓

 

現存二基の「巽櫓」(南側から見て右側)と「坤櫓」(南側から見て左側)は、三重三階の「層塔型」で白漆喰総塗籠で同じような様相をしていますが、よく見ると右左は少しずつ異なります。最も大きな違いは、「巽櫓」の正面は「平側」(建物の側面)である一方「坤櫓」の正面は「妻側」になっていて変化をつけています。

 

その他の特徴的な違いですが、

・「巽櫓」→初重正面に軒唐破風、二重目正面に千鳥破風、初重西面に千鳥破風、二重目西面に破風なし、北面初重破風なし、北面二重目千鳥破風、北面には窓が全く無し

 

「南大手門」跡桝形から「巽櫓」(右)と「坤櫓」(左)↓

「巽櫓」(正面南面は平側)↓

「巽櫓」(南下から見上げる、初重に軒唐破風・二重目に千鳥破風)↓

「巽櫓」(東面側から見る、奥に「坤櫓」)↓

「巽櫓」(北東側から、北面には窓が全くない)↓

「巽櫓」(西面)↓

 

・「坤櫓」→初重正面に千鳥破風、二重目正面に軒唐破風、初重東面に破風なし、二重目東面に重ね破風(軒唐破風上に千鳥破風)、北面初重千鳥破風、北面二重目破風なし

 

「坤櫓」(正面南面は妻側)↓

「坤櫓」(西面を見上げる)↓

「坤櫓」(北西側から、最上階の入母屋内妻側が赤く見えるのは「木連(きづれ)格子)」の為)↓

「坤櫓」(本丸跡の北東側から)↓

「坤櫓」(北面と手前には「天守台」)↓

「坤櫓」(東面、二重目には軒唐破風上に千鳥破風を重ねた「重ね破風」)↓

 

本丸内の「天守台」

本来であれば「天守台」は表に出る場所に積上げますが、敢えて奥まった場所に築いていることから、最初から「天守」を建てるつもりはなく、10万石の格式だけを保つ目的で積上げられたと言われています。

 

「天守台」高くはなく、石を若干加工された「打込接」で「乱積み」になっています。また、隅石は最高技術水準ではないですが「算木積み」が採り入れられています。

 

「天守台」(北東方向から)↓

「天守台」の入口↓

「天守台」上(北側から)↓

 

本丸跡内の「門」

「本丸」の出入口は二か所あり、一箇所は「北の丸」へ下る「北門」、もう一つは「二の丸」と「本三の丸」へ出る「東門」でいずれも門跡の石垣が残ります。

 

本丸北門↓

本丸東門↓

 

二の丸・東の丸(旧三の丸)

「二の丸」も最強の守備力を誇り南側は高石垣が続き、当時は「本丸」に近い所から階段を上がると「二の丸虎口」の櫓門「大の門」があって、そこから「二の丸」に入城し、更に「本丸」へは「東門」から入城しました。

 

「本丸」跡と「二の丸」跡の間の「高石垣」↓

「二の丸」跡の南側「高石垣」↓

「二の丸虎口」(大の門)跡へ上がる長い石段↓

「二の丸虎口」(大の門、櫓門)跡↓

 

現在の「二の丸」跡は、木が茂り南側からの景観が良いのでベンチ等が置かれていますが、北側は「土塁」が東側に延びます。

 

「二の丸」跡↓

 

「二の丸」東側には枡形となった門があり「東の丸(旧三の丸)」の出入口へ繋がり、現在もその石垣が残ります。また、その東側には細長い「東帯曲輪」が設けられて、その先は「南帯曲輪」として「二の丸」「本丸」の高石垣の下まで延びています。

 

「東帯曲輪」跡↓

「南帯曲輪」跡(坤櫓の下)↓

 

「東の丸」の北側には、「北の丸」に繋がる立派な「東の丸北の門」の枡形石垣が見られます。

 

「東の丸」跡の「北の門」跡

「東の丸」跡の「北の門」跡(枡形になっている)↓

 

北の丸

北側の縄張りは「北の丸」と呼ばれ、その大半が「桜堀」が占めて鬱蒼とした森となっている上に、その南側には「本丸」と「二の丸」の「高石垣」が壁のように続きます。そして東側には「薬研堀」と空堀の「箱堀」更に「横堀」「千石堀」が置かれていますので、なかなか近づくことが容易ではなかったと思います。

 

現在は、東側から「箱堀」「薬研堀」「桜堀」が現存します。

 

「箱堀」(空堀)↓

「薬研堀」↓

「桜堀」(右側は「本丸」「二の丸」各跡北側の「高石垣」下)↓

「本丸」「二の丸」各跡北側の「高石垣」(「桜堀」から見上げる)↓ 

 

稲荷曲輪

「稲荷曲輪」は、「本丸」西側の一段下に設けられた大きい曲輪で、東南隅には「櫓台」跡が残ります。「本丸北門」から一旦「北の丸」に降りて「稲荷曲輪」に繋がります。また、「稲荷曲輪」の南東隅から「南帯曲輪」或いは「本三の丸」に降りることができます。

 

「稲荷曲輪」跡(左上が「本丸」跡)↓

「稲荷曲輪」跡内で奥に「隅櫓」跡↓

「稲荷曲輪」跡東側で「本丸」跡石垣↓

「稲荷曲輪」跡の南東隅から「南帯曲輪」跡或いは「本三の丸」跡に降りられる↓

 

本三の丸

「高石垣」下側の広大な敷地には、東側に藩主の「居館」が設けられた「本三の丸」が置かれ、西側には「内堀」で囲われた「下屋敷」や「家老屋敷」がありました。現在は、その「内堀」全て埋められて公園の芝生や「第一野球場」の下になっています。

 

「下屋敷」跡(現 第一野球場)↓

 

東側の「本三の丸」跡地には、元祖「二刀流」の「宮本武蔵」が「樹木屋敷」内に造園した庭が再現されていてその入口に当たる所に門が建てられています。

 

「宮本武蔵」が「樹木屋敷」内に造園した復元「庭」↓

 

「武蔵」は播磨国高砂辺りの出生で、江戸時代初期に、城主「小笠原忠真」に招かれて1619年に城下町の都市計画(町割り)を手がけました。その際に城内に城主の遊興・接客施設として「樹木屋敷」と呼ばれるお茶屋と池泉回遊式庭園を築造しました。「武蔵」はこれらのことからすると「三刀流」「四刀流」の能力の持ち主だったようですね。

 

「本三の丸」には、中央に非常に大きな「南大手門(太鼓門)」枡形があり、東西にも枡形を導入した「東(不明)門」「西(不明)門」がありました。そして「本三の丸」の南側、東側、西側にかけては、幅広の「中堀」で守られています。現在でも、満々と水を湛えていて、噴水から水が跳ね上がっています。

 

「中堀」(「南大手門」跡の西側)↓

「南大手門」の「枡形石垣」↓

「南大手門」の「枡形石垣」↓

 

JR山陽本線の「明石駅」は、真北側に二つの櫓と土塀が美しく並ぶ光景を写真に納めることができるビューポイントであります。

 

 

 

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