大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

関ヶ原の合戦で勝利を収めた東軍の「家康」は戦後処理を行い、西軍の大名の改易・減封・移封、「豊臣家」各地の直轄地も東軍大名へ分配加増されて、「家康」自身も250万石から400万石に加増されますが、一方「豊臣家」は「摂津・河内・和泉国65万石の一大名とされます。

 

1601年3月には「家康」は、「大坂城西の丸」から「伏見城」へ移って政務を行い、自領である関八州に対する防衛を固めるために、東の入口の抑えとして、天下普請でまず「膳所城」「加納城」の築城を開始させました。

 

 

「加納城」の位置↓

 

『天下普請で“岐阜城天守”等を移築して築城した「加納城」(岐阜県岐阜市)』

加納城の歴史と城主
「加納城」は、古くは(1445年)「土岐家」の家臣であった「斎藤家」が築城するも廃城(1538年)となっていた所に、1601年に「岐阜城」に代わるお城で西国の外様大名を監視する役割をもたせた、新生「加納城」に「奥平信昌」が入城しました。その際に、「岐阜城」の「天守」移築を始め、その他多くの城郭建造物の部材を使用して築城されました。
※「岐阜城」天守は、「加納城二の丸」に「御三階櫓」として再利用されました。

「奥平信昌」は、「徳川家康」と正妻「築山御前」との間に生まれた娘「亀姫」を娶った婿で、「長篠の戦い」においては「長篠城」を取り巻く1万5千人の「武田勝頼」軍から防衛を果たしました。その後、初代「京都所司代」を経て10万石で「加納城」の城主となりました。
※既に「長篠城」で紹介済みです。
 
しかし「奥平家」は3代で嗣子なく、その後は譜代大名の「大久保家」「松平家」「安藤家」と、1756年に「永井家」が入城するまでは次々と城主が入れ替わりました。「永井家」はその後、幕末・維新まで統治しました。

縄張り
「加納城」の縄張りは「徳川家康」自身が行い、「本多忠勝」が普請奉行を務めるなど、非常に力が入れられ近隣の大名も動員するなどして「天下普請」で築城されました。
 
「本丸」には「本丸御殿」が建てられ、その各隅と西側の真ん中に「櫓」が置かれ、北西隅には「天守台」が盛られましたが、「天守」は置かれなかったようです。「本丸」東側に凸型の「外桝形」を置いて「極楽橋」で「二の丸」に繋がっています。「本丸」の周囲は「内堀」で守られました。

「二の丸」は、「外桝形」を「コ」の字で囲います。北には「厩曲輪」と「三の丸」、南は「大藪曲輪」が配置されてここまでが主郭部となっています。

「外堀」は、東側の「荒田川」と北側の「清水川」を天然の外堀として、西側には「長刀(なぎなた)堀」、南側にもありました。


17世紀後半の「加納城」縄張り地図↓


本丸
現在の「本丸」跡は、「加納公園」の広場になっていますが、その周囲は非常に高さのある「土塁」が取巻き櫓台もあります。


「本丸」跡(加納公園)↓


「本丸」跡を囲う西側の「土塁」跡↓ 


「本丸」跡南西隅の「櫓」台↓


「本丸」跡南東隅の「櫓」台跡↓


「本丸」跡北東隅の「櫓」台↓



先程もお話しましたが、「天守」は建てられず「天守台」は「本丸」北西隅に盛られていて、外側から見ると「腰巻石垣」となっています。「天守」の替りに「二の丸」には「御三階櫓」を建てました。これについては後述します。


「本丸天守台」(堀側から、腰巻石垣、天守は建てられなかったがその替わりに二の丸に御三階櫓を置く) ↓


「本丸天守台」(腰巻石垣、堀側から見る)↓



縦長の「本丸」から少し東側に入った所に「櫓門」を置き、さらに東側に凸字に突き出した「外枡形」を設けて「極楽橋」で「二の丸」に繋げました。現在も、その凸型が良く残り、それを取り巻く内側の土塁の高さを見ると防御性が優れていることが良くわかります。


「本丸」跡から東側に造られた「外枡形」、奥の狭まった所に「櫓門」が建った↓


「本丸」跡から東側に造られた「外枡形」 (左側へ折れた先が「極楽橋」跡)↓


「外枡形」の「土塁」上から「本丸」跡の石垣を見る(端は「南東櫓台」)↓


「外枡形」南面の石垣の南東端から「本丸」跡石垣を見る、手前の広場は「内堀」跡↓


「本丸」跡には、「野面積み」の石垣が良く残っています。1601年に築城された割には古い石垣の積み方ですので、「奥平信昌」が入城する前に廃城となっていたお城の一部分使用しているかもしれません。


「外枡形」南面の石垣と手前は「内堀」跡 ↓


「外枡形」南面の最も南東隅の「石垣」 ↓



「本丸」の南中央には、「櫓門」を伴う「南門」(臆病門)を設け、「内堀」の橋を渡ると「大藪曲輪」に繋がりました。現在は、「南門」脇に石垣が残り、「大藪曲輪」は住宅街が拡がります。


「本丸南門(臆病門)」跡 (「大藪曲輪」跡側より)↓


また、「内堀」は、駐車場や公園施設、芝生などになっていて、堀に面する「石垣」はかなりの箇所で現存しています。


「本丸南門(臆病門)」跡から東側に延びる石垣と堀跡↓


「本丸南門(臆病門)」跡の西側に延びる石垣↓


「本丸」跡南西隅の石垣↓


「本丸」跡北側の石垣 (チャート石、野面積み)↓



二の丸
「本丸」から「極楽橋」を渡った「二の丸」には「二の丸御殿」が建てられてそこで政務が執られました。その周囲も石垣に囲われるとともに、「櫓」も四基置かれ、その内の北東隅には前述した「岐阜城」から移築された「御三階櫓」が建てられ「天守」代用としていました。この東側の石垣下は天然の要害である「荒田川」を利用して、船が出入りできるように「舟入」を設けていました。
 
現在は、「二の丸」跡は、小学校のグランドと地方気象台の敷地になっていますが、「気象台」の敷地北面には「二の丸」の「石垣」が「御三階櫓」の石垣の続きで残っています。


「二の丸御殿」跡(現 加納小学校グランド北側にある岐阜地方気象台)↓


「二の丸」跡石垣(現 加納小学校グランド北側にある岐阜地方気象台)↓


「御三階櫓」台の二の丸石垣 ↓


 
「岐阜城」の「天守」から移築して「二の丸」に置かれた「御三階櫓」について少しお話をしておきます。
1584年に「池田輝政」が城主となった「岐阜城」は、1600年の「関ヶ原合戦」の「岐阜城攻略戦」で落城しましたが、翌年に、「徳川家康」の命を受けた「奥平信昌」が「岐阜城の天守」を「加納城」へ移築しました。

その「御三階櫓」は1728年(享保13年)に落雷で焼失しその時に記された絵図によって、「池田輝政」時代の「岐阜城天守」の姿を知ることができます。この絵図面は、現在の「岐阜城天守」下の櫓風資料館内に掲出されています。

現在の「岐阜城」天守は、この絵図を参考に再現されたと言われています。


1584年に「岐阜城」城主となった池田輝政が築いた天守で、奥平信昌が「加納城」へ移築した際の絵図面↓


三の丸・厩曲輪
「二の丸」の北側には、「堀」を挟んで「三の丸」が置かれ、西側には「厩曲輪」が置かれました。
現在は、「三の丸」跡に「加納小学校」の敷地となり、「厩曲輪」は主に住宅街になっています。「三の丸」跡の「加納幼稚園」前には、ひときわ目立つ高台がありますが、これは「三の丸」北東隅にあった「櫓台」のようです。
 

「三の丸北東隅櫓」の櫓台↓ 


「三の丸北東隅櫓」の櫓台、裏は加納幼稚園敷地 ↓


「厩曲輪」跡↓


 
最後に、「岐阜大付属小学校・中学校」の西側を北上する「山中道」と「県道」との交差点「加納大手町」には、立派な「大手門」跡碑が立っています。


「加納城大手門跡」碑↓

 
 

岐阜は、「織田信長」の「岐阜城」にスポットが当たり、観光スポットも「岐阜駅」北側の長良川周辺に固まっているので、「加納城」の存在を知らない方が多いと思います。「お城」ファンだけの観光地になってしまっていることに残念さを感じます。


加納城・城下町案内絵図↓


 
「家康」等の出来事
まだこの頃は、豊臣政権下の「徳川家康」という位置付けでしたので、関ケ原の戦い後も諸大名は、年始の挨拶にはまずは「大坂城」の「豊臣秀頼」を先に訪問して、臣下の礼をとっていました。また、これは当時「秀頼」が「関白」に就任するとの噂が流れたことも一因でした。

しかしそれが単なる噂であり、「家康」も「豊臣家」が持っていた権限(京都市中・畿内掌握、鉱山の直轄領化など)を積極的に吸収していきました。

次回は、「家康」が「征夷大将軍」に任じられ、「秀頼」との立場が逆転していくところからの「お城」を見て行きます。
 

 

 

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