全国お城の「石・石垣シリーズ」もいよいよ最終コーナーとなってきました。
『「石」の使われ方』において只今は、「石積み(石塁・石列)」が見られるお城をご紹介しています。本日は、「四国地方③」(四国地方は③まであります)で「引田城」は「続日本100名城」です。
「石積み(石塁・石列)」は、「石垣」とは区別して分類していますが、この区別は見た目ではなかなか難しいと思っています。
というのも、「石垣」は石を積み上げていきますが、その際に石の裏側に「裏込石(栗石)」や「土」を入れて排水を良くする等の技法を用いて、近世城郭化が進められた過程の中で築かれたものが多いと思います。従って、時代的には安土・桃山時代の「織豊期」以降において築城されたお城に築かれたモノを「石垣」と呼ぶのだと思います。
一方「石積み(石塁、石列)」は、特に排水などを考慮せずに、土地の補強の為や敵からの見え方、防御に重点を置いて石を積上げたり、石を貼りつかせたりした防壁のようなものだと思われます。従って、見た目では石垣に見えるようでも、石の裏側まで見ることができないことが多いので、「石積み(石塁、石列)」の場合が多いと思います。
今回写真をピックアップしていますが、それが「石垣」か「石積み(石塁、石列)」かを判断する手段を私自身は持ち合わせていませんので、基本的には「戦国時代」に積まれたようなモノは「石積み(石塁、石列)」として分類しました。
発掘調査が行われていて、「石垣」だと判断されているモノもあるとは思いますが、そこは私の独断と偏見で分類していますのでご了承ください。
また、掲載している「石積み(石塁、石列)」以外にも、まだまだ多くのお城(特に山城)で見られるものがあると思いますが、私が今まで登城した範囲内でのご紹介となりますことをお許しください。
「河後森(かごもり)城」(愛媛県北宇和郡松野町)<「古城」跡壁面の石積み>
「河後森(かごもり)城」(愛媛県北宇和郡松野町)<「虎口」跡脇の石積み>
「河後森(かごもり)城」(愛媛県北宇和郡松野町)<「古城」跡壁面の石積み>
「中村城」(高知県四万十市)<「本丸」跡下の石積み>
「中村城」(高知県四万十市)<「本丸」跡下の石積み>
「中村城」(高知県四万十市)<「詰(御城詰)」跡で検出された石積みの北部分を移築復元 >
「岡豊(おこう)城」(高知県南国市)<「三ノ段」跡の石積みと礎石>
「岡豊(おこう)城」(高知県南国市)<「三ノ段」跡の石積みと礎石>
「岡豊(おこう)城」(高知県南国市)<「三ノ段」跡の石積み>
「岡豊(おこう)城」(高知県南国市)<「四ノ段」跡虎口の石積み>
「岡豊(おこう)城」(高知県南国市)<「四ノ段」跡虎口の石積み>
「岡豊(おこう)城」(高知県南国市)<「詰」跡の石積み>
「安芸城」(高知県安芸市)<「詰」跡の北側石積みを「北ノ段」跡から見る>
「安芸城」(高知県安芸市)<「詰」跡の北側石積みを「北ノ段」跡から見る>
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