11/21(月)〜22(火)の二日間、東海地方にある「若かりし頃の家康」所縁のお城巡りをしてきました。

 

前回ブログでは、「鳥羽山城」を訪城して「遠州鉄道」に乗って移動したところまでお届けしました。

 

今回のブログでは、「遠州病院前駅」で下車したところからスタートです。地図を見ると、当駅は「引間(曳馬)城」「浜松城」(静岡県浜松市)の最寄り駅でした。

 

駅を出てすぐ交番裏の所に、何と「二代将軍徳川秀忠公誕生の井戸」跡があり全く予定外でしたので、凄くラッキーでした。「秀忠」は「家康」の側室「西郷局」が出産時にこの辺りの井戸水を使用したとの伝承を元に作られた井戸とか。出生地はこの場所と、もう一つ二の丸北側という説があるそうです。

 

「二代将軍徳川秀忠公誕生の井戸」跡碑

「二代将軍徳川秀忠公誕生の井戸」跡

 

そこから北西方向にあるのが「引間(曳馬)城」跡で現在は「元城町東照宮」が建ちます。

 

「出世大名 家康くん」によるルート案内図

 

引間(曳馬)城」は、「今川方」の拠点でしたが、1568年に三河から遠江に入った「徳川家康」が「今川方」の拠点であった当城を攻めて入城し、その後城域を西から南西にかけて拡げて「浜松城」を築城しました。

 

1572年に「武田信玄」が「二俣城」を攻めた後、「浜松城」を無視して西上作戦を取ったのに対して、「家康」が「三方ヶ原」まで軍を進めて「信玄」に攻撃をしかけましたが、それが失敗に終わり「三方ヶ原の戦い」では大敗を喫して這う這うの体(てい)で「引間城」の北東に当たる「玄黙口」まで逃げ帰ってきました。

 

その「玄黙口」跡には現在碑が立っていて、その後方は「切通し」になっています。また、北東には「土塁」も残り、堀跡である道路からも見上げることができます。

 

「玄黙口」跡

「玄黙口」跡の南側にある「引間城の切通し」と「土塁」(右側)

「引間城」の北端(道路は堀跡)

 

前述のように、「引馬(曳馬)城」跡に建つ「元城町東照宮」は、1886年(明治18年)に建てられますが、太平洋戦争で焼失し、1958年(昭和33年)に再建されたものです。

 

「曳間城跡」碑

「引間城」内

「引馬(曳馬)城」跡に建つ復元「元城町東照宮」

「元城町東照宮」扉に付く「葵紋」

「元城町東照宮」前に立つ灯篭に「ハート形」

 

この拝殿裏には、「三方ヶ原の戦い」時に31歳だった頃の「家康像」と、「豊臣秀吉」が16~18歳まで「松下加兵衛」に出会った後仕えて浜松に居住していた頃の「日吉丸像」が立ちます。

 

「家康像」と「日吉丸像」

31歳のころの「家康像」(少しふけた感じ)

 

「引間城」を後にして、と言っても、「引間城」は「浜松城」に城域を拡げることで包含されましたので、「浜松城」の一部となっています。そして江戸時代には「古城」と呼ばれ、「米蔵」等に使用されていたようです。

 

「引間城」の位置(現在地の場所)

 

「本丸・天守曲輪」跡の東側に拡がる「二の丸」跡は、「元城小学校」跡地の広場と「浜松市役所」等の行政エリアになっています。

 

「二の丸」跡に建つ「浜松市役所」(「本丸」跡から)

 

特に、「元城小学校」跡地の広大な広場は現在立入禁止となっていて、後から知ったのですが、1月から始まるNHK大河ドラマ「どうする家康」の「大河ドラマ館」が建ち並ぶ敷地だったようです。

 

「元城小学校」跡地の広大な広場(「富士見櫓台」から見下ろす)

「どうする家康」大河ドラマ館の予告ポスター

 

3月18日から約10ケ月の間、開館するようですので楽しみな施設となるでしょう。

 

浜松城」についての歴史と城主についてですが、29歳から45歳の頃まで居住していた「家康」は勿論のこと、その後に入城した面々についても触れておきたいと思います。

 

「家康」が1570年に入城以降は「浜松城」と改称しましたが、「豊臣秀吉」政権下、「家康」は「関八州」への移封となりその後に入った「堀尾家」の時にお城の整備拡張が行われました。

 

関ヶ原の戦い以降は再び「徳川」のお城となり代々譜代大名の居城で、「桜井松平家」「水野家」「高力家」「大給松平家」「太田家」「青山家」「本庄松平家」「大河内松平家」「井上家」等が5万石前後で入城して、城主は目まぐるしく替わり定着しませんでした。

 

ただ、当城主の多くが、江戸幕府の「老中」等の重役に抜擢され、「家康」の所縁(ゆかり)のお城であることから「出世城」とも言われました。特に有名なのは、19世紀の初めに「天保の改革」を推進した「水野忠邦」で、彼は老中に成りたくて、敢えて収入の良い「唐津城」から当城への転封を希望して城主となりました。

 

浜松城」の立地と縄張りは、中世城館である「引馬(ひくま)城」を城内に取り込み、最高所に「天守曲輪」を置きました。そして東側に「本丸」、「二の丸」を設け、「梯郭式曲輪」となっています。

 

縄張り絵図(安政年間古図)

 

更に、その南東に広大な「三の丸」と侍屋敷を置いて城下町が拡がっています。「天守曲輪」の南西には「清水曲輪」、その西側に「西端城(にしばじょう)曲輪」を配備し、更に谷を隔てた小丘には「出丸(鳥居曲輪)」を設けています。特徴的なのは、南側と東側に堤防状の「中土手」を設けていました。

 

「天守」の位置は、西側にある「天守曲輪」の「天守門」を入って西端に位置します。

 

 

「二の丸」跡の西側にある「本丸」跡は、丘陵地となっていて「空堀」跡だった道の西側にあります。「本丸」跡の入口は「鉄(くろがね)門」と呼ばれる「櫓門」でその脇には「菱櫓」が建っていましたが、その遺構は殆ど無く場所の表示のみです。

 

この付近に「鉄門」があったらしい

 

その辺りの石段を上がった所の細長い広場が「本丸」跡で、ここにも若かりし頃の「徳川家康像」がど真ん中に立ちます。ここから東側下が「二の丸」跡の市役所建物や元城小学校跡地の広場、その奥には、先程見てきた「引間城」跡のこんもりした森が見渡せます。

 

「本丸」跡

「本丸」跡に立つ「徳川家康像」

 

一方、西側は「天守曲輪」跡になっていてその古い形式の「野面積み」の石垣が貼りついて迫力満点です。西側から北側にかけても石垣が延びていて、その先端には「富士見櫓」台が残ります。

 

「本丸」跡から見上げる「天守曲輪」跡の「野面積み」石垣

「本丸」跡から見上げる「天守曲輪」跡の「野面積み」石垣

 

「富士見櫓」は「平櫓」で御殿風の櫓だったそうで富士山を望めたようです。「太田家」時代の家紋の瓦が多数出土していることから、1644~78年頃には建っていたのではないかと言わています。

 

「富士見櫓」台(「本丸」跡から)

「富士見櫓」台上

 

「天守曲輪」跡へは復元「天守門」から入城しますが、門の両脇には「鏡石」が嵌められ、更にその両脇の石垣は「野面積み」で「布積み」になっている珍しい積み方が見られます。平べったい「珪岩」と言われる石が積まれているので横に目地が通っているように見えます。

 

復元「天守門」

復元「天守門」脇の「鏡石」(向かって右側)

復元「天守門」脇の「鏡石」(向かって左側)

「天守曲輪」跡の「野面積み・布積み」の石垣

「天守門」脇の「野面積み・布積み」

「天守曲輪」跡の「野面積み・布積み」

 

復元「天守門」は、2014年(平成26年)に木造復元されました。形式は「櫓門」で、明治初めまで残っていたようで、色々な文献や発掘調査から、本物に近い形で復元されました。

 

復元「天守門」(「天守曲輪」跡側から)

復元「天守門」の内部

 

今回のブログはここまでで、次回ブログでは「天守」内部から始めます。

 

 

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