すでに「速報」でお届けしていますように、第二弾「夏好例のお城巡り一人旅」8/18(木)~19(金)の一泊二日です。

 「青春18切符」がまだ残っていたので、第二弾では香川県と徳島県のお城巡りに出かけました。

 

第二弾「夏好例のお城巡り一人旅」の2城目は「勝瑞(しょうずい)城館・勝瑞城」(徳島県板野郡藍住町)で、こちらも「続日本100名城」に選定されているお城です。

 JR「勝瑞駅」からは徒歩で10分位の所にありますので、汗もあまりかくことなく到着しました。

 

城内見学の前に、「勝瑞(しょうずい)城館・勝瑞城」の歴史と城主について記載しておきます。

 

室町時代に、阿波の守護となった「細川氏」が守護所を「勝瑞」に置きます。「阿波細川家」は管領だった「細川家本家」の庶流として幕府の政治にも関与して畿内で活躍しますが、「細川家」内の家督争いの紛争で「細川一族」は衰退していきます。

 

その中で頭角を現したのが「三好氏」で、「細川家」を軍事面で助けますがやがて「細川家」を滅ぼして戦国大名として、畿内では最も有力な大名に成長します。

 

1553年に「三好実休(さねやす)」が守護の「細川持隆」を自害に追い込み、阿波の実権を握り1560年には兄の「三好長慶」の命で河内南部・和泉も勢力下に収めます。

 

しかし、「実休」が戦死した後に継いだ「長治」そして「十河在保(そごうまさやす)」は、1582年の「長宗我部氏」の勝瑞侵攻を受けて「織田信長」に救援を要請し、守りを固めるよう指示のもと堀と土塁を充実させましたが、結局は城を放棄して讃岐に退きます。

 

こうして、「勝瑞城」と城下町は終わりを告げてしまいます。

 

「勝瑞城館・勝瑞城」の「縄張り」は、大きくは「勝瑞館」と「勝瑞城」部分になっていて、「勝瑞館」内は、幅10mもある「濠」によって5区画に別れ、「区画Ⅰ」では「建物」と「池泉庭園」があり、「区画Ⅱ」は「会所建物」「枯山水庭園」、「区画Ⅲ」~「区画Ⅴ」までは今後発掘調査されて埋め戻しされているのでしょうか。

 

そしてこのメインの「城館」の北東、「区画Ⅴ」の東側には、「織田信長」から堀と土塁を築くように指示された「勝瑞城」が位置します。

 

阿波戦国時代と勝瑞城館(資料館に掲出)

「勝瑞城館跡周辺案内図」(区画位置が分かります、資料館内に掲出)

 

 

事前に「勝瑞城館・勝瑞城」のパンフレットを入手していたので、見るポイントをチェックしていましたので、割とスムーズに見て廻りました。

 

説明板と新しく立てられた「史跡勝瑞城跡」碑から城内に入りますが、見渡す限りの広場で、所々コンクリート状のモノと建物が見えるだけです。

 

「史跡勝瑞城跡」碑

 

 

 

「区画Ⅰ」は、「建物礎石群」や「池泉庭園」があった場所ですが、埋め戻されているのか全くの広場、敷地内も立入禁止となっています。

 

「区画Ⅰ」(資料館より)

「区画Ⅰ」にあった「池泉庭園」跡の発掘調査写真(資料館に掲出)

 

真直ぐ西方向に進んだ所には、凹んだ部分をコンクリートで固めたモノが見られますが、それが「濠」跡だそうで「区画Ⅰ」北側から「区画Ⅰ」と「区画Ⅲ」「区画Ⅱ」の間に入り込んできています。そして「濠」を渡る「木橋」が再現されています。

 

「区画Ⅰ」と「区画Ⅱ」の間の「濠」跡

「区画Ⅳ」から「濠」跡越しの南方向「区画Ⅲ」

南方向の「濠」跡(幅が非常に広い)

「区画Ⅱ」と「区画Ⅲ」の間の「濠」跡

 

 

「区画Ⅱ」の西側部分には「会所建物立体表示」が行われ休憩所兼用の立体建造物が建ち、その南側には「枯山水庭園」の復元展示がされています。

 

「会所建物立体表示」

「枯山水庭園」の復元展示

「枯山水庭園」跡から発掘された石々(この写真は資料館に掲出)

 

「区画Ⅱ」と「区画Ⅲ」の間の2/3くらいまで「濠」が入り込み、「区画Ⅲ」の」西端には北から南にかけて「濠」が有ったことを示すコンクリート造りの「濠」が見られました。

 

発掘調査時の「濠」の深さ(写真は資料館内に掲出)

 

「濠」跡は縦横に見られましたが「土塁」が「濠」沿いに殆ど設けられていない「城館」は珍しいらしく、発掘調査からは「茶道具」「香道具」等が見つかっていて優雅な生活が送れるほど、阿波は外的侵攻を受けることが無い社会情勢であったことを物語っているとのことでした。

 

発掘調査で発掘された「茶道具類」

 

見るべき箇所はそれぐらいでしたが、敷地が広く遮蔽物がないので炎天下での1周はかなり体力消耗されました。

 

その後、「区画Ⅰ」の南側に設置されているプレハブの事務所兼資料室へ行き、発掘時の写真、発掘物、三好家の経歴等を冷房が効いた涼しい部屋で、暫く涼みながら見させていただきました。

 

発掘された「丸瓦」(資料館内に展示)

発掘された「軒平瓦」(資料館内に展示)

発掘された「鬼瓦」の一部(資料館内に展示)

発掘された「刀・刀装具」(資料館内に展示)

 

2022年が「三好長慶」の生誕500年らしくて、驚いたのは「三好長慶をNHK大河ドラマに」の署名活動されていることでした。畿内での「三好長慶」の居城「芥川山城」や「飯盛山城」の有る「高槻市」「大東市」「四条畷市」等が活動しているのは知っていましたが、ここまで派生されていました。

 

「三好長慶をNHK大河ドラマに」の署名活動

 

ここで暫く涼んだお陰で少し元気回復し、「城館」の北東にある「勝瑞城跡」へ向かいました。

 

周辺は「勝瑞城」の幟が立ち並び、「濠」は南側から西、北にかけた水を湛えていました。

 

「勝瑞城」の幟と南側の「濠」

「勝瑞城」跡の南西隅の「濠」

「勝瑞城」跡の北側の「濠」、木々の所は「土塁」

 

中は現在「見性寺」の境内になっていて、外からは木々が覆い中を見通すことが出来ませんが南西隅から西側にかけて「土塁」に木々が生えているような感じです。「濠」沿いに北側に廻ると土橋がありそこから寺院の境内に入れました。

 

入って直ぐ右手に「土塁」との表示があり、少し盛り上がり部分がみられます。

 

「勝瑞城」跡西側の「土塁」

発掘時の「勝瑞城」の「土塁」の高さ(資料館内掲載の写真から)

 

更に左手には、綺麗に「矢竹」が育っていますが、「矢竹」は矢にできる竹だということですので戦国時代の城内の雰囲気づくりには有効な感じです。

 

「矢竹」

 

その「矢竹」前には「勝瑞義冢碑」と非常に綺麗な字で掘られた碑が立ちます。これは、徳島藩の儒官「那波魯堂」の筆で、 「勝瑞義冢(ぎちゅう)」という「三好家」の盛衰と戦没者の慰霊文を漢文で記した碑で、町指定有形文化財に指定されています。

 

「勝瑞義冢(ぎちゅう)」碑

 

また境内には、「長治、実休、元長、之長」の「三好四代の墓」があもあります。

 

「三好四代の墓」(左から「長治」「実休」「元長」「之長」の墓碑)

 

非常に時間を要することなく訪城することができたので、当初の予定通りの「勝瑞駅」15時33分発の列車に乗ることが出来て「徳島駅」へ向かうことができました。

 

次回は、3城目の「徳島城」をお届けします。

 

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村