「田原城」(愛知県田原市)についてです。
木造復興の「田原城 桜門」
「田原城」は、戦国時代に「今川家」の人質だった「竹千代」(後の「家康」)を強奪して「織田信長」へ送った「戸田家」のお城でしたが、そのことに激怒した「今川家」から攻められて没落します。
戦国時代後半には「徳川家康」による三河統一に伴い「田原城」は「家康」の支配下となりますが、1590年に「池田輝政」の城代が入ります。
関ケ原の戦い後に「戸田家」が復活し、1664年には「三宅家」が入城して以来幕末・維新まで統治が続きます。江戸時代後半には、画家・文人であった「渡辺崋山」が家老となり藩政改革を行うも「蛮社の獄」で切腹を迫られました。
「桜門」は、三つあった「櫓門」の一つで重要な場所に建てられ、前面に堀を構え、櫓門の後ろには「日出門」を構えて空間を造り、その隅には二重の「二の丸隅櫓」を置いて出入りの監視を強めていました。
木造復興の「田原城 桜門」と後ろには復興「二の丸隅櫓」が見える
古写真には「桜門」の一部が写っているものの、はっきりした外観が判らないので、1994年に木造復興された櫓門の外観は、袖石垣には乗らず、門扉や門柱に鉄板を貼り付け、二階部分を総板張りで仕上げています。
古写真に写る門両脇の土塀は、「海鼠壁」でしたので、復元では「海鼠壁」を採用しています。堀の水、1階の白壁、2階の板張り、両脇の海鼠壁が巧くコラボできて美しい門となっています。
木造復興の「田原城 桜門」(二階は板張り、両脇の城壁は「海鼠壁」)
木造復興の「田原城 桜門」(「日出門」側から)
木造復興の「田原城 桜門」(東内側から)
木造復興の「田原城 桜門」(海鼠壁、2階の板張り、水堀のコラボ、南西方向から)
「田原城」の模型(手前が「桜門」、資料館内に展示)
「二の丸隅櫓」は、明治時代初期の古写真が残っていて、下見板張りで初重目には「出窓」が見られます。
1765年に城内補修の為に幕府にで提出された絵図では、1基の「二重櫓」と3基の「多門櫓」、城門12棟(内櫓門3棟)が記載されていますので、「二重櫓」は「田原城」内ではシンボル的に天守代用の役割を果たしていたようです。
現在は、1958年と早い時期に、元の「二重櫓」跡地に入母屋造りに望楼が乗る「望楼型」で、外壁は「白漆喰総塗籠め」、初重東側には庇状の唐破風が付けられる等、古写真とは全く違う模擬櫓が建てられています。
模擬「二の丸隅櫓」(当時は、下見板張りで出窓付き、左奥には復興「桜門」が見える)
模擬「二の丸隅櫓」(復興「桜門」前から見上げる)
模擬「二の丸隅櫓」(「二の丸」跡側から)
「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。
「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。
もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。











