4/1(金)の午前中に「伊賀上野城」(三重県伊賀市)へ登城した後は「伊賀鉄道」「近鉄大阪線」で「榛原駅」まで乗車し、そこから「奈良交通」のバスで「大宇陀」まで20分程揺られた後に徒歩で「宇陀(うだ)松山城」(奈良県宇陀市)に登城しました。

 

私は、約20年前に訪城して以来でしたので、殆ど記憶にありませんでした。

 

バスの終点「大宇陀」にある「観光協会」で「観光イラストマップ」と「絵図から見る宇陀松山」等のパンフをいただきました。特に後者は、帰宅してからジックリと見ると、お城の歴史、お城と城下の範囲などの変遷が良く判る資料でした。

 

「宇陀松山城」の復元CG(観光イラストマップより、千田嘉博氏提供)

縄張図(現地にて掲出、上のCGとは向きが逆)

 

ここで少しお城の歴史と城主に付いて触れておきます。

宇陀松山城」(奈良県宇陀市)といえば、南北朝時代に国人の「秋山家」が築城したのに始まりますが、「北畠家」による攻城後の1585年に「豊臣秀長」が「大和郡山城」に入ったことから、豊臣系の家臣(伊藤氏、加藤氏、羽田氏、多賀氏)が城主となります。

 

「関ケ原の戦い」後には、「福島高晴」が入りますが、「大坂夏の陣」で豊臣方に内通の疑いをかけられ改易され、その後に「織田信長」の息子「信雄(のぶかつ)」が、この大和国と関東の上野(こうづけ)国併せて5万石で入ります。

 

「信雄」は、「上野国」の所領を四男「信良」に与え、残った大和国2万8千石を自分の隠居領として統治しました。その後この地を5男が次ぎますがその2代後にお家騒動が起こり、準国主格であった家格がはく奪されしかも減封となり、兵庫県の「柏原(かいばら)陣屋」に移封となります。

 

お城の破城命令があり「小堀政一(遠州)」が実行しましたが、その際に克明な破城の様子を伝える文書(資料)を残しています。

 

 

さて私は、観光協会の方に道を尋ねて登城開始です。かなり上まで広い「自動車道」が続いていているので足元は難無く上がることが出来ました。

 

城山遠望

「大宇陀」からの道(自動車道)

 

その先に「宇陀松山城」の説明及び「縄張図」が掲出されている所まで車で上がれるようになっていて、城跡への山道と「春日神社」への分かれ道になっています。

 

この先から右へ上るとすぐに「南西虎口部」、左へ下ると「春日門」跡へ

ここから少し山道に入る(ここまでは車で来れそう)

 

「続日本100名城」に選定されて、このような自動車道ができたのではないかと思いました。というのも、20年前に登城した時には山道をかなり歩き、途中ヘビがとぐろを巻いているのに遭遇した記憶だけが鮮明に頭に残っていたことから草がかなり生えていたように思います。

 

その場所からの坂道は「大手道」のようで、少し坂道を上るだけで郭の土塁部分が見えてきます。右手は木々が繁っていてその中を覗くと「土塁」が二本並んで見えます。一方、左手は「横堀」が奥に向かって走り、もう少し上がるとそこは南西虎口部への入口である「雀門」跡に辿り着きます。

 

右手の木々の間に「土塁」が2本見える

「横堀」

「大手道」と「南西虎口部への入口(雀門跡)」

 

このお城には虎口が3箇所あり、あと2箇所は後段で説明しますが「南虎口」「南東虎口部」です。

 

縄張りは、主郭である「本丸」と「天守郭」が最高所である標高473mに置かれ、周囲は急斜面になっています。南面下には細長い「帯郭」が西側から東側にかけて横たわり、その中間的な所には「南虎口」が置かれています。

 

そしてその先には、「大御殿」「二の丸」が配備されていて、「二の丸」との出入り口に「大門」が管理しています。それらを取り囲むように、北東と北西に二箇所の「御加番郭」、「虎口郭」、そして南西には「御定番郭」が配備されています。

 

縄張図(右上から入城)

 

前述した「雀門」跡には石段が土に埋もれながらも目にすることができその脇にも石が見られます。

 

「大手道」と「南西虎口部への入口(雀門跡)」

 

「大手道」は、「西帯郭」跡の「土塁」の下を左に折れ、正面には「虎口郭」跡の側面が見えますがそこには破城で残った石垣でしょうか、確認できます。その突当りを右に折れると「虎口郭」に辿り着きます。

 

「西帯郭」跡の「土塁」下を「大手道」は左に折れる

「虎口郭」跡の側面で「大手道」は右に折れる

左は「虎口郭」跡、中央が「本丸」跡、右が「西帯郭」跡

 

「虎口郭」の端から下を覗くと、急斜面の下には先程の「横堀」が見えます。この辺りには瓦の破片が散在していました。

 

「虎口郭」跡

「虎口郭」跡に散在する瓦破片

「横堀」(「虎口郭}跡から見下ろす)

 

坂道を上ると「本丸虎口」跡が見られ、上りきった広々とした「本丸」跡の奥に、盛り上がった「天守郭」が見渡せます。

 

「大手道」から「本丸」跡

「本丸虎口」跡への「大手道」

「本丸虎口」跡

「本丸」跡の先には「天守郭」跡が見える

 

当時「本丸」には「本丸御殿」が建っていて、「広間」「遠侍」「家臣溜」「書院」「台所」の5棟の殿舎から構成されていたようで、屋根は檜皮葺か杮葺きであったそうです。石垣沿いには「多門櫓」が建ちかなり防衛的にも堅固であったようです。その「多門櫓」の礎石でしょうかそれを見ることができました。

 

「本丸御殿」イメージ図(「宇陀市パンフレット」に掲出)

「多門櫓」の礎石か?

 

「天守郭」へは西面に2箇所の上がり口があり、現在でもその石段が見られます。

 

「天守郭」跡の西面

「天守郭」跡の南東隅の石垣

「天守郭」の南虎口跡

「天守郭」の北虎口跡

 

「天守郭」は細長く、碑が立ちますがその内容は何かは良く判らずでした。郭の東側が2~3段の石積みで高くなっている所が「天守台」のようです。流石に、473mの山頂ですので風が強くて帽子が飛ばされそうになりました。

 

「天守郭」跡の西側は「奥向御殿」跡(城主日常の空間)

「天守郭」跡の南張出し(「付櫓」が建っていたらしい)

「天守郭」跡に落ちていたツバキの花

「天守郭」跡の北側の「切岸」

「天守台」北下の郭

「天守台」(「天守郭」跡内)

「天守台」上の礎石

「天守台」から北東方向の眺め

 

「天守台」は、南には「東帯郭」跡方向と東には「大御殿」跡まで裾野を広げています。当時は石垣で積まれていたようで、破城によって石が剥がされていますが、所々石垣の石が「天守台」の山肌に残されています。

 

「天守台」南東隅から「南東虎口部(大門)跡」を見下ろす

「天守台」(南東隅)

「天守台」(「東帯郭」跡からのぞむ)

「天守台」に残る「矢穴」がある石

「天守台」南面の石垣

「天守台」北側斜面に残る石垣 

「天守台」北側斜面に残る石垣 

 

私は、「天守郭」「本丸」跡から下りて、先程通ってきた「虎口郭」から「帯郭」を東に向かって進みました。途中「南虎口」の石段と石垣があり更に進んだ所が「大御殿」の南端になります。

 

「南虎口」跡から「本丸」跡へ

「南虎口」跡

「東帯郭」と「南虎口跡」(奥に見える、西方向)

 

説明書きが立っている所に行くと、幅広の石段とその手前には2つの盛り土が確認できましたが、そこが「南東虎口部・大門」跡で「二の丸」跡との接続箇所であることを知りました。

 

「南東虎口部・大門」跡と「二の丸」跡方向(「天守台」より見下ろす)

「南東虎口部・大門」跡の櫓台?(東側)

「南東虎口部・大門」跡(西側)

「南東虎口部・大門」跡の石段(「二の丸」跡側より)

「南東虎口部・大門」跡の石段(「二の丸」跡側より)

 

「大門」跡の南東方向は森になっていますが、そこが「二の丸」跡で木々の伐採がされていないので、中に少し入っても全体像が良く判りませんでした。

 

「二の丸」跡

 

「天守郭」の東に拡がる「大御殿」跡、更に一段低い位置に拡がる「御加番郭」跡を見ながら、「天守郭」北の斜面に沿って進み、「本丸」跡へ直登しました。

 

「大御殿」跡(「大門」跡付近から北方向)

「御加番郭」跡(「大御殿」跡から)

 

「宇陀松山城」の「前編」は山上の山城部分をお届けしました。

 

「後編」では、春日神社に繋がる「大手道」を下り、山麓の遺構並びに城下町として発展して現在は江戸時代の雰囲気を色濃く残している「重要伝統的建造物群保存地区」を見て行きたいと思います。

 

「後篇」はこちらからご覧ください↓

 

 

 

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