本日の「天守台シリーズ」は、第103弾「佐土原(さどわら)城」(宮崎県宮崎市佐土原町)です。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

佐土原(さどわら)城」(宮崎県宮崎市佐土原町)の歴史と城主について記載しておきます。 

建武年間(1334~38年)頃に、「伊東家」の一族「田島休助」が「田島城」を築城、その後「伊東家」が「田島城」に入城します。

 

1537年に「田島城」は焼失したので、1542年頃に「田島城」跡地に「佐土原城」を築城します。しかし、1572年に起こった「木崎原の戦い」で「伊東家」は「島津家」に大敗して「島津家久」が入城します。

 

1587年に、「豊臣秀吉」による九州平定が行われますが、「家久」が急死した後には息子の「豊久」が城主となります。しかしながら、関ヶ原の戦いで「島津家」は西軍方に属したので、一時「幕領」となりました。

 

1603年に「島津以久(ゆきひさ)」が3万石で「佐土原城」へ入り、以降は「島津家」のお城となります。1615年の「一国一城の令」で山上部分の「天守」等は破壊され、更に1625年には、山上の「本丸」にあった「居館」を麓の「二の丸」へ移しています。

 

「縄張図」(城内に掲出)

 

「二の丸」に建っていた「二の丸御殿」は明治初めまで存在していましたが、文書や絵図は残されてなく発掘調査などから1993年に推定復興されました。

 

復興「二の丸御殿」(鶴松館)の「車寄せ」と「大広間」

復興「二の丸御殿」(鶴松館)内の「大広間」

 

山上の「本丸」に建っていたとされる天守代用の「三階櫓」は、絵図が残っていて「白漆喰総塗籠め」で無破風の三重で描かれてるそうです。

 

「本丸」跡の西側から「天守台」方向をのぞむ

 

現在は「本丸」の東端から発掘調査で現れた「根石」と1~2段の石が現れたようですが、それ以上の石は持ち去られ、礎石も残っていない状態ですが、「天守台跡」の碑が立てられています。発掘調査では、「天守台」跡から金箔の瓦も見つかっているそうです。

 

「天守台」跡(破壊後に残された石、絵図では「三階櫓」が描かれているとか)

「天守台」跡に残された石

「天守台」跡に立つ「天守台跡」碑

「天守台」跡に残る石

「天守台跡」の解説

「天守台」跡から「本丸」跡西側をのぞむ

 

 

 

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