本日の「天守台シリーズ」は、第102弾「延岡城」(宮崎県延岡市)です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「延岡城」(宮崎県延岡市)の歴史と城主について記載しておきます。
「豊臣秀吉」の九州平定で功績があった「高橋元種」が「延岡」の領主となります。
関ヶ原の戦いでは、「元種」は当初西軍に属していましたが、途中から東軍に寝返ったことから、戦後は「徳川家康」から所領を安堵されました。
1601年、後に「延岡城」と名前を替える「縣(あがた)城」の築城に着手し1603年に完成します。
しかし、「元種」が罪人の身柄を匿ったとのことで改易されて、1614年に「有馬直純」が入城して、お城の修築を行い、天守代用の「三階櫓」を築きました。
「有馬家」は三代続きますが、その間1682年に「三階櫓」が焼失し、以降再建されることなく藩主(城主)も「三浦家」1代、「牧野家」2代が入り、18世紀の中頃から入城した譜代大名の「内藤政樹」になってやっと藩主(城主)が定まり、幕末・維新まで続きます。
「延岡城」は、「天守台」「本丸」「二の丸」「三の丸」からなる「本城」と、藩主の居館が有った「西の丸」の二郭で構成されています。
「本城」の「天守台」は、城内で最も高い場所にあり非常に広い敷地ですので、「天守台」と名前が付いていますが実際は「天守曲輪」であったと思われます。
「天守台」の側面
「天守台」から眺める「延岡市内」
ただこの上には「天守」が建っていたという記録はなく、現在では「今山八幡神社」とその「梵鐘」が建ち、その後は広場となっています。「天守台」への虎口は発掘調査によって目にすることができます。
「天守台虎口跡」説明書
「天守台虎口」跡
「天守台」内に建つ「今山八幡神社」とその「梵鐘」
天守代用の「三階櫓」は、「天守台」の東下の腰曲輪の端に建てられ、現在はその櫓台及び礎石を見ることが出来ます。
天守代用の「三階櫓」台
天守代用の「三階櫓」台(城内側隅石)
天守代用の「三階櫓」台(城内側)
また、「西の丸」跡に建つ資料館「※内藤記念館」内には、1862年に作成された「三階櫓」の模型と、「二階櫓」の模型が展示されています。 ※「内藤記念館」は、現在再整備の為閉館中(延岡市役所南別館で展示中か?)
「三階櫓」模型(「西の丸」跡に建っていた「内藤記念館」は現在閉館中です)
「三階櫓」の模型(中央の平坦部分が「天守台」、(「西の丸」跡に建っていた「内藤記念館」は現在閉館中です)
「延岡城」で最も有名なのは、「千人殺しの高石垣」で高さ22mの高石垣の一番下の部分をはずすと石垣が崩れ落ち1,000人は殺すといわれた大高石垣です。その反りも見事です。
「千人殺しの高石垣」(反りが凄い!)
「千人殺しの高石垣」
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