本日の「天守台シリーズ」は、第101弾「森(久留島)陣屋」(大分県玖珠郡玖珠町)です。陣屋なので「天守」は建てることが出来ませんが、8代藩主が「天守」に見立てた建造物を建てました。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

森(久留島)陣屋」(大分県玖珠郡玖珠町)の歴史と城主について記載しておきます。 

「来島(くるしま)家」は、平安時代以来、伊予国の瀬戸内海上にある来島に本拠を置く「村上水軍」の1家の当主でした。村上水軍には、他に「能島村上家」と「因島村上家」の2家がありましたが、「来島村上家」は早くから「豊臣秀吉」に臣従しましたので、「毛利家」に臣従していた後者2家とは、その後明暗を分けました。

 

関ケ原の戦いでは、「来島長親(くるしまながちか)」は西軍に参加しましたので所領である「来島」を没収されました。しかし、妻の伯父に当たる「福島正則」の取りなしもあり、幕府からは、豊後国の内陸部にある「森」に1万4千石で所領を与えられ陣屋を構え、水軍からは足を洗うことになりました。そして、来島の名前も、長親の長男である「通春」の代に「久留島(くるしま)」と改姓して、その後幕末まで存続しました。

 

 

「陣屋」は、「角牟礼(つのむれ)城」の麓に造られましたが、8代藩「通嘉(みちひろ)」の時に、「三島宮(末廣神社)」を建築して、その周辺を大々的に高石垣を設けたり、1831年には「天守」に見立てた茶室「栖鳳楼(せいほうろう)」を建造したりして、城郭化するような整備を行いました。

 

現在の「久留島陣屋」周辺図

 

「栖鳳楼」は、「三島宮本殿」前に建てられた二階建て、階下は「茶室」として使用しその前面に造園された枯山水の庭園越しには九重連山を借景として取り込んでいます。

 

二重の「栖鳳楼」(県指定文化財)

「栖鳳楼」前の「枯山水庭園」

「栖鳳楼」前から眺める城下と遠くには「九重連山」をのぞむ

 

現存の「栖鳳楼」は、石垣や土台等の「天守台」はありませんが、礎石上に柱を建てて二重の建物を支えています。屋根は「寄棟造り」、外壁は下見板張りで、裏側は綺麗な赤壁を施しています。

 

「栖鳳楼」(県指定文化財、赤壁が美しい)

「栖鳳楼」

「栖鳳楼」の戸袋下に装飾を施す

「栖鳳楼」の1階と2階の建物の支え

「栖鳳楼」1階基部に使用されている金具

「栖鳳楼」2階の裏手

 

また、その敷地を堅固なものにする為に、急斜面に石垣が築かれています。石垣の石は、ほぼ大きさを揃えた直方体で布積みによって積上げられています。

 

「栖鳳楼」が建つ敷地裏には2段の「高石垣」

「栖鳳楼」南斜面の高石垣 

 

裏手の「清水御門」が建つ所では、高石垣の隅部は「算木積み」となり、立派な「築地塀」が築かれています。

 

「清水御門」と「築地塀」

「清水御門」左手の高石垣の隅石は「算木積み」

 

「陣屋大名」ですので「天守」を建てることはできませんが、藩主「通嘉(みちひろ)」としては、「天守」に憧れがあり城主格の気分を味わうことに拘った結果の城郭化整備だったようです。

 

 

 

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