本日の「天守台シリーズ」は、第98弾「岡城」(大分県竹田市)です。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

ポスターにも良く使用される「三の丸高石垣」

 

岡城」(大分県竹田市)の歴史と城主について記載しておきます。 

古くは、1185年に「緒方惟栄」が「源頼朝」と仲違いした「源義経」を匿う為に築城したとの言い伝えがありますが、本格的には14世紀前半に「大友家」の分家の「志賀家」がお城を拡張したとのことです。

 

1586年に「大友家」と「島津家」の争いでは、攻める「島津家」の大軍を「志賀親次」がわずかな兵力で撃退して「豊臣秀吉」に絶賛されます。

 

しかし「大友家」が所領没収となり「親次」も「岡城」から退去して、その後は「中川秀成」が入城し、1597年にお城の修築を行い近世城郭化します。

 

「秀成」は、「本丸」の南西隅には天守代用の「御三階櫓」を建て、下見板張りで入母屋屋根に二階建ての望楼が乗る「望楼型」とし、最上階には「廻縁・高欄」と「華頭窓」を付け、初重には2箇所の「出格子窓」を持っていたことが絵図から読み取れます。

 

また、「御三階櫓」には「渡櫓」によって接続していた「角櫓」が建ち、これを「小三階櫓」とも呼ばれていたようです。

 

岡城全景絵図(現地に掲出)

 

ただ初期の「御三階櫓」は、1771年に焼失しますが、その後1774年に再建した「御三階櫓」は幕末・維新まで存在して古写真にも写っています。

 

天守代用の「御三階櫓」台は落し積み(谷積み)」のようで、隅石は反りの無い直線的で完全な「算木積み」となっていますので、再建時に積み直しを行ったようです。

 

天守代用の「御三階櫓」台(「落し積み(谷積み)」を採用)

天守代用の「御三階櫓」台(西側)

天守代用の「御三階櫓」台(「三の丸」跡から)

 

「本丸」跡側から見ると、土台として2段の石積みしか施されていません。五間四方の中には、現在も礎石が残されています。

 

「本丸」跡側から見た天守代用の「御三階櫓」の土台

天守代用の「御三階櫓」の礎石

 

また前述の「角櫓(小三階櫓)」台も、「三階櫓」台同様に「落し積み(谷積み)」で、隅石は完全な「算木積み」となっています。

 

「角櫓(小三階櫓)」台

「本丸」跡内の「金蔵」の石垣(継ぎ足しが見られる)

「本丸」跡から眺める「小富士山」「祖母山」方向

 

 

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