一昨日(3/6)に、関東から山城好きの「城友」が来訪して、大阪北部の豊能郡能勢町にある「山城」を案内してくれました。

 

「城友」は関東在住なのに先日も能勢にある山城を登城したようで、もう一度こちらに有る色々な「山城」に登りに来るとのことでしたので、ご一緒させてもらいました。

 

私は9時過ぎに伊丹空港近くのホテルまで車で迎えに行き、「城友」の計画によって「山辺城」→「地黄(じおう)陣屋」→「野間城・野間館」の順に巡りました。

 

私の住まい「池田市」の北側に「豊能郡」が位置して、ご近所で自然が多いのでしばしばドライブに訪れることができる最適な場所でしたし、「地黄陣屋」は旗本陣屋ながらも立派な石垣造りの「虎口」を持つ「陣屋」として何度か訪れたことがありました。

 

しかし、「山辺城」や「野間城・野間館」は地名として知っているものの、お城があってそんな見所のある「山城」とは全く知りませんでしたし、興味もありませんでした。

 

ただ最近、「山城」への興味が少しずつ湧いてきていたものですから、登城前から「城友」から送られてくる縄張図を見て資料を読むうちにワクワクして当日を迎えました。

 

本日は「山辺城」(大阪府豊能郡能勢町)からお届けします。

 

「山辺」交差点から右折すると直ぐに山頂433mの山(「能勢富士」と呼ばれているそうな)があり、お城はその頂上部分に拡がってるそうです。右折した道から暫くして左に入り「三恵園」という介護施設の脇からどんどん車で上がり廃屋が沢山並ぶ付近に車を停めました。

 

「山辺城」がある「能勢富士」

車を停めた所からまずはこの急坂を上ります

 

凄い急坂な坂を上りきりそこから山へ入る経路が解らなかったのですが、直登で尾根に辿り着きそこから尾根伝いに上がると、目に入ったのが「Ⅶ郭」東下の細長い「横堀」です。ハッキリと判る「横堀」でしたのでまずは興奮をして写真を撮りまくりました。

 

「郭図」(高橋成計氏 踏査)→番右の郭名が記載してなかったので便宜上「Ⅷ郭」と呼びました

「Ⅶ郭」東下の「横堀」

「Ⅶ郭」東下の「横堀」

 

「横堀」西側の「土塁」中は「Ⅶ郭」で北側にある「虎口」から入ります。そこは「出丸」的な役割を持っているようで、周囲には高さのある「土塁」がほぼ完全に取り巻いていました。東側に主郭方向への「西虎口」がありますが、そちらへ向かう前に東側にある「Ⅷ郭」へ行きました。

 

「Ⅶ郭」東虎口(内側から)

「Ⅶ郭」周囲の高さが有る「土塁」

「Ⅶ郭」周囲の高さが有る「土塁」

「Ⅶ郭」周囲の高さが有る「土塁」

「Ⅶ郭」全景(西側から)

 

なだらかな「土塁」上を歩き小さな郭ですが「Ⅷ郭」が構え、その北東から攻めてくる敵を「堀切」と「竪堀」によって遮断したようです。

 

「Ⅷ郭」東側の「堀切」から「竪堀」に

「Ⅶ郭」(出丸)を見上げる(東側「Ⅷ郭」方向から)

 

再び「Ⅶ郭」に戻り「西虎口」を出た左側にも「土塁」に囲われた「横堀」を見ることができ、右手の「堀切」と「竪堀」に架かる「土橋」を渡って上り進みますと、右手にもう二本の「竪堀」が掘られています。

 

「Ⅶ郭」の「西虎口」

「Ⅶ郭」西側へ延びる「横堀」と「土塁」

「Ⅶ郭」西側へ延びる「横堀」内松の木に「サルノコシカケ」

「Ⅶ郭」から「Ⅵ郭」への道沿いに有る竪堀

 

390m辺りまで辿り着くと、右手の「切岸」上に「Ⅵ郭」の東面とその上には盛り上がった所が見えますが、それが「Ⅳ郭」(準主郭)のようです。

 

「Ⅵ郭」下から見上げ「Ⅳ郭」が少し見える

 

Ⅵ郭」に上りきって感嘆の声を上げたのは、そこから「切岸」が施された十数mの絶壁が覆い迫ってくるかのように見えたからです。「Ⅵ郭」は、「Ⅳ郭」(準主郭)の腰郭的な敷地で東側を取巻いています。

 

「Ⅵ郭」に迫る「Ⅳ郭」

「Ⅵ郭」(南方向)

「Ⅵ郭」に迫る「Ⅳ郭」(「Ⅴ」郭方向から)

 

Ⅴ郭」に出ると、木がかなり伐採してあるので、そこは丁度「Ⅳ郭」と「Ⅱ郭」を繋ぐ平らな幅広の馬の背のようになっていて、そこは後から見る「Ⅱ郭」の絶壁です。また、「V郭」側の「Ⅳ郭」北面も「切岸」を施された断崖絶壁になっています。

 

「Ⅴ郭」から「Ⅱ郭」をのぞむ

「Ⅴ郭」から「Ⅳ郭」の北面を見る

「Ⅳ郭」の北面切岸(西側から)


 

西側にある「Ⅳ郭」(準主郭)の「虎口」を入ると、「Ⅳ郭」はほぼ南北に長く瓢箪型をしていて四段構成になっているようです。

 

「Ⅳ郭」(準主郭)の「虎口」

「Ⅳ郭」(準主郭、南方向)

「Ⅳ郭」(準主郭、北方向)

 

途中にそんなに大きな段差ではないですが、南に行くほど高くなっています。この「郭」の特徴は、南東斜面と南西斜面沿いに巨岩が数個転がっていていました。この後「Ⅱ郭」や「Ⅰ郭」下腰郭周辺には石塁が多く見られるので、石の調達場であったのかもしれません。

 

「Ⅳ郭」(準主郭、南東隅に巨岩)

「Ⅳ郭」(準主郭、西側にも巨岩)

 

この両端から見下ろす斜面の「切岸」は半端でないくらいの傾斜です。

 

「Ⅳ郭」(準主郭)から「Ⅵ郭」を見下ろす

 

「Ⅳ郭」を後にして、「Ⅴ郭」を通り「Ⅱ郭」東下に着きましたが、そこの盛り上がりはかなりあり、手前には小さな腰郭を伴います。

 

「Ⅱ郭」東面

 

Ⅱ郭」内は、あまり木々が伐採されていないので全体像が良く判りませんでしたが、東端から「Ⅴ郭」を見下ろすと高さを感じることが出来ます。

 

「Ⅱ郭下腰郭」から「Ⅴ郭」を見下ろす (高さがある)

「Ⅱ郭」北側の「切岸」

 

「Ⅱ郭」と「Ⅰ郭」の間には「ⅢA郭」という小さな郭がありましたが、「虎口」付近に小さな穴と石を敷いた跡があったので何かあったように思えます。

 

「ⅢA郭」

「ⅢA郭」の「虎口」付近にあった「石塁」と「穴」

 

更に、「Ⅱ郭」「ⅢA郭」の南崖下には、石塁がへばり付いているのが各所で見ることが出来ます。特に「Ⅰ郭」の「虎口」付近には多数の石塁や石の散らばりが見られることから、「Ⅰ郭」を守るべく重要郭だったことを物語っているようでした。

 

「Ⅱ郭」「ⅢA郭」の南崖下に貼りついている「石塁」

「Ⅱ郭」「ⅢA郭」の南崖下に貼りついている「石塁」(上と同じ石塁)

「Ⅰ郭」虎口付近の「石塁」

「Ⅰ郭」虎口付近の「石塁」

「Ⅱ郭」下から見上げる「Ⅰ郭」

 

Ⅰ郭」(主郭)は北寄りの敷地内に「土塁」に見える盛りあがりがあるようでしたが草で覆われていて全体像は分かりませんでした。勿論北側の斜面には「切岸」が施され厳しい斜面になっています。一方南側から西側にかけては大きな「腰郭」が取り巻いていました。

 

「Ⅰ郭」の「虎口」(周囲には石が散乱)

「Ⅰ郭」(西から東方向)

「Ⅰ郭」下を取巻く「腰郭」 (「Ⅰ郭」から見下ろす)

 

Ⅰ郭腰郭」から見上げる「Ⅰ郭」の高さを感じることが出来ました。ここは、「Ⅰ郭」がいざという時に備えて、兵士を待機させて置く場所だったんだろうかと想像しました。

 

「Ⅰ郭腰郭」

各所で見られた「シカ」のフン

 

更にこの「腰郭」の南面に下りていくと、見事な「石塁」が二か所高さを異にして並んでいるのを見てワクワク感が最高潮に達しました。

 

「Ⅰ郭の腰郭」南側の「石塁」 

「Ⅰ郭の腰郭」南側の「石塁」 

 

以上のように「山辺城」は、「Ⅰ郭」(主郭)と「Ⅳ郭」(準主郭)の二郭を持つ「二郭一城形式」のお城で、非常に迫力ある立派な造りになっています。

 

かつて「能勢」は、「多田源氏」の一族である「能勢家」が支配していて、戦国時代には「能勢家」を領袖とする武士団「西郷衆」が群雄割拠し、周辺の山に城(砦)を築いていった内の一城が「山辺城」のようです。

 

特に「山辺城」は、「能勢家」の祖先「源基国」が築いて「丸山城」の詰城になったとの伝えもあるそうで、「細川二流の乱」では、「細川氏綱」方として「細川晴元」方の「波多野家」や「塩川家」と敵対関係となるも上記武士団「西郷衆」が勝利して「塩川家」を破ります。

 

しかし、「織田家」を後ろ盾にして盛り返した「塩川家」は「織田信澄」と共に、当時在城していた「大町家」を攻めて焼失・落城させています。

 

このような歴史が我が町(池田市)の北部にあり、しかも「名城級」のお城が築かれていたことを知って、身近で訪城できる「山城」に増々はまりそうな気がしてきました。しかも今回は、木もだいぶ伐採された状態で凄く見やすくなっていたので「山城」に対するイメージも変わったのかもしれません。

 

次のブログでは、「江戸時代」に旗本として存続した「能勢家」の「地黄陣屋」跡をお届けします。ここは、「陣屋」跡ではありますが、石垣の「桝形虎口」を備えた立派な「陣屋」跡です。

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。


お城巡りランキング

 

こちらにも「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

PVアクセスランキング にほんブログ村