本日の「天守台シリーズ」は、第95弾「中津城」(大分県中津市)です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「中津城」(大分県中津市)の歴史と城主について記載しておきます。
「豊臣秀吉」の九州平定の戦功で「黒田孝高」が豊前国を与えられ、中津に築城しました。関ヶ原の戦いでも東軍で戦功をあげたことから今度は加増されて福岡に移封となり、その後に「細川忠興」が入り当城の修築を行いました。
1602年に「小倉城」を築城して「忠興」は移りますが、「中津城」は引続き大修築を行い櫓を22基も巡らせた近世城郭となり、1620年には家督を「忠利」に譲り隠居城としました。
1632年に「細川家」が「熊本城」へ移封したのに伴い、外様大名の多い九州で監視の為に譜代大名の「小笠原長次」が入城、更に1717年には10万石で「奥平家」が入城して幕末・維新まで続きます。「小笠原家」「奥平家」ともに、「徳川家康」と血縁関係がある家で、「中津城」は重要度の高い位置づけでありましたが、「細川家」時代と同様に、「天守」だけは築かなかったようです。
1964年に建てられた「模擬天守」は、五重五階の望楼型、下見板張りのRC造りで、土塀に続く南側の「二重櫓」を伴います。モデルは古写真で見られる「萩城」天守だそうです。「萩城」と同様に「天守台」から少しはみ出た「出張り」を採用しています。
模擬「天守」は五重五階、下見板張りの望楼型
模擬「天守」は望楼型、「天守台」から「出張り」
模擬「天守」は「天守台」からの「出張り」を採用
模擬「天守」と復興「二重櫓」
模擬「天守」と復興「二重櫓」
従って、「天守台」は模擬「天守」を設ける為に従来の「打込接・乱積み」であった「本丸」の石垣の上に「本丸」跡の石よりも小さい石で積増しているようで、上部途中から石の大きさが異なって見えます。
「天守台」の上部において石の色と大きさが異なる
「天守台」と「本丸」跡側の石の色が異なる
「本丸」跡北面石垣に「y」字状の目地(右側が「黒田家」の石垣、左側が「細川家」の石垣)
「二重櫓」の場所には、古写真でも二重の「本丸東南隅櫓」が建って北に向かって「多門櫓」が付随していただけでした。
現在の「二重櫓」は当時と同じ「下見板張り」ながらも、「妻」と「桁」の位置が異なったモノになっています。
復興「二重櫓」(本来は、「妻」が南北)
「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。
「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。
もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。










