本日の「天守台シリーズ」は、第90弾「唐津城」(佐賀県唐津市)です。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

唐津城」(佐賀県唐津市)の歴史と城主について記載しておきます。

肥前唐津は、「本能寺の変」後、「豊臣秀吉」の家臣となった「寺沢広政」の息子「広高」が、「秀吉」の朝鮮出兵で後方部隊として大きな貢献があったので与えられます。

 

RC造り「模擬天守」

 

そして、関ヶ原の戦いでは東軍で戦ったことから、その戦功として築城が認められて1608年に完成しました。

 

しかし、「寺沢家」は嗣子なくお家断絶となり、その後は譜代大名が入れ替わり入りますがその中で「水野忠邦」は、自身が幕閣の一員として幕府の運営に関わるべく「老中」に成りたいとの野望があり、出世しやすい「浜松城主(藩主)」に移封できるように色々と働きかけをしたそうです。

 

 

「天守」についてですが、「天守」が描かれた絵図等は残っていないので、その有無が判っていません。ただ、豊臣時代に敢行された「朝鮮出兵」の前線基地だった「名護屋城」天守を、廃城時に「唐津城」に移す計画があって「天守台」だけを設けはしたらしいですが、江戸幕府に配慮して中止したとも言われています。

 

RC造り「模擬天守」

 

現在の「天守」は非常に立派な五重五階地下一階ですが、1966年に文化観光施設として建てられたRC造りの模擬天守で外観を「名護屋城天守」らしく模したとも言われています。

 

「肥前名護屋城図屏風」(名護屋城博物館内) に描かれている「天守」

「名護屋城天守」らしく建てられたという「模擬天守」

「名護屋城天守」らしく建てられたという「模擬天守」

 

現在の模擬天守の「天守台」は、「名護屋城天守」を移築する為に築いたモノかどうかは判りませんが、「天守台」付近の石垣面には、複数の刻印が確認できるそうです。

 

「模擬天守」と「天守台」から「本丸石垣」(「本丸櫓門」前から)

「模擬天守」の「天守台」(打込接・乱積み)

 

 

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