本日の「天守台シリーズ」は、第89弾「柳川(柳河)城」(福岡県柳川市)です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「柳川(柳河)城」(福岡県柳川市)の歴史と城主について記載しておきます。
1500年の最初、「蒲池(かまち)家」が「蒲池城」の支城として築城しました。その後「蒲池鑑盛(あきもり)」がお城を改築拡張します。
1581年に「龍造寺隆信」が城を包囲して、翌年には「蒲池家」は滅亡して「龍造寺家」が城を得ます。しかしながら、「隆信」が沖田縄の戦いで戦死したので、「大友軍」が「柳川城」を攻めましたが落城しませんでした。
1587年に「豊臣秀吉」の九州平定後に「立花宗茂」が筑後3郡を得て、1596年に「柳川城」の改築を始めます。
関ケ原の戦い時には、「柳川城」が攻められ激戦の末降伏して開城しました。「宗茂」は所領没収され、その後に「田中吉政」が入城して、お城の大規模修築を行い五重五階の「天守」も建てます。
しかし「田中家」は息子「忠政」に嗣子無く断絶、その後に「立花宗茂」が「大坂の陣」で戦功を上げたことから再入城を果たします。以降、幕末・維新まで「立花家」のお城として存続します。
五重五階「天守」は明治初年迄残っていて古写真にも写っています。「層塔型」の付櫓を伴う「複合式」天守で、各階には「大千鳥破風」「比翼千鳥破風」「唐破風」が装飾され、特に東西面の二重目と南北面の三重目には、「千鳥破風」と「唐破風」の両方を用いた「重ね破風」になっていて非常に豪華な見栄えがします。
古写真「天守」(「御花」内に掲出)
また最上階は、「廻縁」を室内に取り付けて周囲を戸袋付きの板窓を設ける工夫が施されています。
「天守」は、石垣に囲われた「本丸」の南西隅に石垣の「天守台」を設けて建っていました。
現在は、「柳城中学校」校庭内の「本丸天守曲輪」跡周囲に石垣が残るくらいで、15m×19mもあった「天守台」の石垣は全て取り払われています。
「本丸城跡」碑
「天守台」跡(石垣は取り払われている)
「本丸」跡(「柳城中学校」校庭の南東隅)
「本丸天守曲輪」跡の石垣北西隅
「本丸天守曲輪」跡の石垣東面
「本丸天守曲輪」跡の石垣
「天守」の古写真や模型、復元絵は、近くに建つ「御花(おはな)」内の「対月館」に掲出・展示されています。
「古写真」(「御花(おはな)」内の「対月館」に掲出)
「天守」模型(付櫓が繋がる、「御花(おはな)」内の「対月館」に展示)
「天守」復元絵(「御花(おはな)」内の「対月館」に掲出)
この「御花」は、1697年に城内「三の丸」南西隅の「花畠」に建てられた藩主の別邸跡に、1909~10年にかけて「立花邸」として建てられたもので、日本三景の松島を模した庭園「松濤園(しょうとうえん)」を中心に、和館と洋館で構成された観光旅館と「立花家史料館」として地元でも愛される建造物となっています。
「御花」の「松濤園」
「御花」内の「和館」
「御花」内の「洋館」(迎賓館として明治43年築)
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