本日の「天守台シリーズ」は、第85弾「土佐中村城」(高知県四万十市)です。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

土佐中村城」(高知県四万十市)の歴史と城主についてですが、応仁の乱の頃、1468年に「一条教房」が京都から中村へ下向して国司となり、「為松家」が「教房」の為に「中村古城」を整備しました。

 

模擬「天守」(中は「四万十市立郷土資料館」として使用、北方向から)

 

そこで「一条家」は五代続きますが、「長宗我部元親」との争いに敗れて1575年には「土佐一条家」が滅亡し、お城には「長宗我部家」の城代が置かれます。

 

関ケ原の戦い後は、「山内一豊」が「土佐国」を与えられて、「土佐中村城」には弟の「山内康豊」が入城し、その息子「政豊」の時に近世城郭化されますが、その2年後の1615年の「一国一城の令」で廃城となりました。

 

 

当時の近世城郭化された姿は分りませんが、「本丸」跡と言われている南側の堀切跡(道路になっている)沿いに一部石垣が見られ、そこが「天守台」付近だということですので、「天守台」の石垣だったかもしれません。

 

「中村城跡」碑と「天守台」付近の「石垣」

「天守台」付近の「石垣」

「天守台」付近の「石垣」

 

「本丸」跡の西側の「堀切」を越えた所には周囲を「土塁」に囲われた「二の丸」跡があり、そこには「犬山城天守」を模した城郭建造物「模擬天守」が建っていて「四万十市立郷土資料館」として使用されています。模擬「天守」は四重五階で、1973年に竣工されました。

 

「二の丸」跡に建つ城郭風建造物の「四万十市郷土資料館」

「二の丸」跡に建つ城郭風建造物の「四万十市郷土資料館」(「犬山城天守」を参考)

 

因みにその模擬「天守」の「天守台」は「切込接・布積み」で積み上げられています。

 

「二の丸」跡に建つ城郭風建造物(模擬天守)の模擬「天守台」

 

 

 

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