本日の「天守台シリーズ」は、第82弾「松山城」(愛媛県松山市)です。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

松山城」(愛媛県松山市)の歴史と城主についてですが、「関ヶ原の戦い」が終了した翌々年1602年に「加藤嘉明」によって「勝山」に築城を開始します。そして1603年にそれまでに入っていた「松前(まさき)城」から移ります。

 

重文「大天守」(右側)と復元「小天守」(左側)

 

1627年に入城した「蒲生忠知」は、「二の丸」増築を行いますが嗣子なく断絶し、その後に15万石で入城したのが親藩の「(久松)松平定行」で、以降は「久松松平家」が統治します。

 

「加藤嘉明」が築いた五重天守は、1642年に三重天守にわざわざ改築されますが、1784年に落雷で焼失した後の1852年に再建した「大天守」が現在見られる「天守」となっています。

 

 

国内現存12城の「天守」の一つで重要文化財に指定されています。

 

重文「天守」(南面)

 

三重三階地下一階の下見板張り、層塔型、連立式天守で二重二階の「小天守」を伴いますが、「大天守」以外は1933年の原因不明の失火に寄って失い、1968年に「小天守」含めて1852年当時の姿に復元されました。

 

「大天守」を支える「大天守台」は、若干の隙間は見られ物の「切込接・布積み」で「本丸本壇」の地面から五~六段の石積みになっています。元々は、「五重天守」が建っていた大きさの「天守台」に「三重天守」を上げたため、現在見るような縦が低く横幅が広い押しつぶしたような印象を与えています。

 

重文「大天守」と「天守台」(「北隅櫓」から見る)

重文「大天守」と「天守台」(東面を見上げる)

「大天守」の「天守台」(「切込接・布積み」、南東隅)

「大天守」の「天守台」(「切込接・布積み」、南面)

「大天守」の「天守台」(「切込接・布積み」、西面)

 

また、複合式天守の正式な入口は「内門」「玄関多門」と「北隅櫓」の間に「玄関」が設けられていますが、「天守」の入口は「天守台」を切リ抜いた「埋門」からも入城できるようになっていて、現在の入口はここから中に入ります。

 

「本壇 天守内曲輪」内にある復元「玄関」と復元「玄関多門」

「大天守台」に切り抜かれた「天守入口門」

「大天守台」の地階入口付近

 

「小天守」は、「本壇」の入口でもある「一の門」を「一の門南門」と共に守りを固めて監視する役割も果たしていることから、高い石垣を積み上げ「武者返し」を採り入れています。加工法・積み方は「大天守台」と同様に「切込接・布積み」です。

 

復元「小天守」と「小天守台」(高石垣)

復元「小天守」と「小天守台」(高石垣で武者返し、「切込接・布積み」)

復元「小天守」(「大天守」から見る)

 

 

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