本日の「天守台シリーズ」は第68弾「鹿野城」(鳥取県鳥取市)です。

 

「王舎城(鹿野城)図」(現地に掲出)


  
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
 
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
 
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
 
 
鹿野城」(鳥取県鳥取市)の歴史と城主は、「志加奴(しかぬ)家」の居城でしたが、1543年に「尼子晴久」が攻めて「尼子家」のお城になります。

 

「天守」が頂上に建っていた「妙見山」と「外堀」、左は「櫓台」


その後、「尼子家」から「毛利家」の勢力下になり「鳥取城」を監視する役割を果たしていましたが、1580年に「豊臣秀吉」の「鳥取城」攻めに際して、「亀井茲矩(これのり)」が「鹿野城」を攻略し、その後は彼が城番から城主となります。

関ケ原の戦い後も「茲矩」は当城に留まり3万8000石に加増されて「天守」の建築や石垣の増強により近世城郭化を進めました。

彼は、朱印船貿易を行い海外に関心が高かったこともあり、インドの仏跡に因んで城名を「王舎城」にしたり、櫓名に「朝鮮櫓」や「オランダ櫓」、御殿には「唐木御殿」等と命名しました。

1617年に「亀井家」は「津和野城」へ移封となり家臣が城番となりますが、1644年頃に廃城となります。その後は、「鳥取藩」の支藩となり「池田家」が統治し、「陣屋」が置かれました。



「天守」は、約150mの「妙見山」の山頂に築かれ、文献の中には「三層の高楼天に聳え」とありしかも瓦も出土していることから三重「天守」があったのではないかと言われていますが、「天守」が描かれた絵図などは有りません。

 

「妙見山」の山頂に「天守」が聳えていた



現在、頂上部の「天守曲輪」には「天守台」が残りますが、「石段」を上がると、約10m四方の礎石列や中央柱の礎石が残っていて、更にその外側14m四方が外周りになっていて、「天守台」の石垣は殆ど剥がされていてありません。

 

「天守台」までの石段

「天守台」登り口

「天守台」上の約10m四方の「礎石列」

「天守台」上の約10m四方の「礎石列」

「天守台跡」について

「天守台」から「鹿野城下」を見下ろす



「天守台基底部」には「根石」が残っているとのことでしたが、確認ができませんでした。

 

「天守台」下の曲輪



 

 

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