12月10日(金)に、「青春18切符」を使用して、「鎌刃城」(滋賀県米原市)と「彦根城」(滋賀県彦根市)を訪城してきました。

 

本日は「彦根城 前編」(滋賀県彦根市)をお届けします。

 

当初計画していたのは、「彦根駅」から近くにあり、登城したことがなかった「佐和山城」へ行く予定で進めていましたが、パンフレットに16時までに下山する旨が記載されてたので、どうしても「鎌刃城」に行ってからでは時間的にタイトになることが分かり、2日前に「彦根城」の外周を周回することに決めました。

 

結果的には、前回の「鎌刃城」のブログでも記載したように、足がもうパンパンになっていたのでこれ以上の登山は無理でしたので、「彦根城」をレンタサイクルで周回する計画変更は正解でした。

 

さて「米原駅」から新快速に乗り5分で「彦根駅」に到着して、「駅リン」でレンタサイクルを申請してスタートです。

 

駅前には、「井伊直政」像が凛々しく馬上でこちらを向いています。

 

「彦根駅」前に立つ「井伊直政」像

 

「徳川家康」は、「関ヶ原の戦い」の後、畿内の有力外様大名に睨みを利かすべく「佐和山城」に「直政」を入城させます。しかし「直政」は、2年後に「関ヶ原の戦い」で受けた傷が原因で逝去し、後を継いだ「直勝」がまだ幼少であったので、家老の「木俣守勝」が「家康」と相談して「彦根城」の築城を進めました。

 

築城に際しては、天下普請によって進められ、1606年に三重三階「天守」を含む第1期工事が完成し、「直勝」が入城しました。その後表御殿等の建築が進められ1622年に完成しました。

 

病弱だった「直勝」に替わり異母弟であった「直孝」が継ぎ「大坂夏の陣」の働きの他幕政にも関わり35万石まで加増され「井伊家」の基盤を盤石なものにしました。その後は代々老中や大老を輩出し下記で紹介する「埋木舎」の主でもあった「井伊直弼」を輩出します。

 

「彦根城跡全図」(メイン部分、入城パンフレット掲載)

 

私は「いろは松」を進み、「佐和口門」手前の「中堀」沿いにある「埋木舎」前で久々に写真を撮り、その前から「中堀」越えで復元「佐和口多聞櫓」の写真撮影をしました。

 

「いろは松」

「埋木舎」

「埋木舎」前から「佐和口門多聞櫓」(奥は現存重文、手前は復元)をのぞむ

 

現在夜間に特別公開されているプロジェクションマッピングの写真が、「埋木舎」から続く土塀沿いに掲出されていて非常に幻想的で美しいので思わず好みの写真を撮りました。

 

プロジェクションマッピングの写真

プロジェクションマッピングの写真

プロジェクションマッピングの写真

 

「佐和口門」を抜けて、本来であれば左手にある「表御門」跡へ向かうのですが、今回は「内堀」沿いに右手に進みます。

 

「佐和口門」(左現存重文、右復元)

 

今まであまり意識せず見逃していた「裏御門」跡を今回はきっちりとチェックした後、右手の「玄宮園・楽々園」の土塀沿いに進んでいきます。今年の4月に孫と一緒にこの中を見学したので今回はパスし、更に「黒御門」跡からも入城しないでそのまま真直ぐに進みました。

 

「裏御門」跡

「黒門」跡

「黒門」の古写真(「彦根城博物館」に掲出分)

 

公園や野球場があるエリアが広がりますが、ここは「琵琶湖」の「旧松原内湖」だった所を埋め立てしてできた土地です。

 

左手「内堀」越しには、高石垣が続き、「横矢掛かり」の折れが見られる北側の所が「山崎曲輪」跡です。この先端部分には二重の「北東之御櫓」と三重の「西角三階御櫓」が建っていたようです。

 

「黒門」跡前からのぞんだ「山崎曲輪」跡方向

「横矢掛かり」が見られる、右手が「山崎曲輪」跡

「山崎曲輪」跡内の「北東之御櫓」台

 

「山崎曲輪」跡の西側に行く前に、ここから近い所にある「旧彦根藩松原下屋敷」(お浜御殿)があるとの情報を得ていたので是非見たいと思い、進行方向を北に向けました。

 

お城周辺部の絵地図(「ひこね旅」パンフより)

 

「滋賀大学」のグランドと漕艇部の基地(部室と船置き場)の細い道伝いから「松原橋」を渡って少し進むと鬱蒼とした森があり直ぐにそこだと分かりましたが入口が解らず、1周してやっと辿り着いたのですが、門が閉まっていてショック!

 

「旧松原内湖」の跡が堀状になっている(「松原橋」から)

 

ご近所の方がいらっしゃったので伺うと、年2回の見学日があり秋は11月末に終わったところだということでした。

 

仕方なく、「旧彦根藩松原下屋敷」(お浜御殿)の玄関部分を望遠レンズでそして周辺部分を撮影しましたが、玄関の表札が「井伊直愛」さん、そして広々した空き地の門には「井伊直久」さんの表札が掲げられているには驚きました。

 

「旧彦根藩松原下屋敷」(お浜御殿)の門と玄関

「旧彦根藩松原下屋敷」(お浜御殿)の玄関部分

「旧彦根藩松原下屋敷」(お浜御殿)の並ぶ蔵

 

「井伊家」は脈々とこの彦根に根付いて生活されていることが実感できました。因みに、「井伊直愛」さんは元「彦根市長」、「井伊直久」さんは「直愛」さんの次男だということを、以前この「下屋敷」を投稿されていたお城同好会の方に教えていただきました。

 

そこから、「北野神社」まで真っすぐに南下する途中の道路からは、右手の山上に重文「西の丸三重櫓」の北面が良く見えます。この方角から見るのは勿論初めてですが、「三重櫓」に連結する「続櫓」がこんなにも長かったことを知ることが出来たと共に違った顔を見ることが出来ました。

 

重文「西の丸三重櫓」と重文「続櫓」(北面)

 

「北野神社」を右折してすぐの所には、「外堀」沿いに築かれた三か所に門の一つ「長曽根口御門」跡が見られます。他の「外堀」に面した門は「高宮口御門」「油懸口御門」です。

 

「長曽根口御門」跡は、門の石垣は有りませんが、「外堀」の一部と堀沿いに築かれた「石垣」を見ることが出来ます。

 

「長曽根口御門」跡

「長曽根口御門」跡付近の「外堀」の遺構

「長曽根口御門」跡付近の「外堀」跡と石垣

 

この後、東に向かって進んでいくと「中堀」に出ます。「中堀」沿いには石垣が築かれた土地が続いていますが、ここは元々は「家老屋敷跡」で「文化財保存用地」となっていて、現在は「滋賀大学」や「駐車場」「検察庁」「家庭裁判所」として使用されています。

 

「中堀」の左側は「家老屋敷跡」で「文化財保存用地」

 

私は、「中堀」の北折れと共に真っすぐ進んで「船町口門」跡に向かいました。その手前には「滋賀大学経済学部」の正門があり、直ぐ中には「旧彦根高商」だった頃の「講堂」の木造建造物が見られます。ググると「登録有形文化財」でした。

 

「滋賀大学経済学部」の正門と「旧彦根高商」時の「講堂」(登録有形文化財)

 

またその辺りからは、重文「西の丸三重櫓」が今度は西面を見せてくれていますし、国宝「天守」も初重から見える良いポジションです。

 

重文「西の丸三重櫓」と重文「続櫓」の西面

国宝「天守」

 

「中堀」を渡った正面には「船町口門」跡の石垣が構え、右に折れ曲がっています。曲がった右手には長い「雁木」が残っていました。

 

「船町口門」跡の石垣

「船町口門」跡の桝形内から西方向

「船町口門」跡の桝形内の北方向

「船町口門」跡脇の「雁木」

「船町口門」の古写真(「彦根城博物館」内に掲出)

 

「中堀」に面して城内へ渡る門は北側から「長橋口門」「船町口門」「京橋口門」「佐和口門」の四箇所あり、現在「佐和口門」は西側の多聞櫓が現存して重要文化財に指定され、東側には多聞櫓が復元されていますが、それ以外は石垣等の遺構が残っています。

 

今回、「長橋口門」と共に「内堀」に架かる「山崎口門」の遺構も見る予定でしたが、そこへ至る道筋が解らず断念、「京橋口門」の遺構は後述します。

 

「山崎口門」の古写真(「彦根城博物館」内に掲出)

 

「船町口門」を超えたエリアが先程「内堀」越しに見ていた「家老屋敷跡」で「文化財保存用地」となっていて、空き地や一部住宅が建ちますが、その山側には「内堀」が水を湛えています。

 

「家老屋敷跡」(現在は「文化財保存用地」ですが駐車場等に使用中、奥には「土塁」)

 

「内堀」に沿って「腰巻石垣」と「土塁」が曲線を描いて非常に美しい光景が見れるポイントですが、そこ辺りから南側にかけて当時は米倉が建ち並んでいた「米蔵曲輪」になり「大手門」近くまで広がっていました。その途中には、米入門という「水門」跡があり現在でも両脇の石垣が残っています。

 

「内堀」沿いの美しい曲線美を見せる「腰巻石垣」

「水門」跡(中は「米蔵曲輪」跡)

この辺りから見える国宝「天守」

 

前編はここまでとします。

 

後篇では「大手門」跡からお届けしていきますのでまた御覧ください。

 

 

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