「お城」の「天守台シリーズ」第51弾は、「和歌山城」です。

 

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

和歌山城」(和歌山県和歌山市は、1585年に「豊臣秀吉」の命で「豊臣秀長」が築城しますが、その際、「秀吉」が縄張りを行い「藤堂高虎」に工事を担当させています。

 

RC造り外観復元「和歌山城 大天守と小天守」

 

城には城代として重臣の「桑山重晴」が入り、関ヶ原の戦いでは東軍に味方して暫く城主でしたが、その後「浅野幸長」が37万6000石で入城し、この時に「天守曲輪」が整備され「天守」が造営されたようです。

 

1619年に「徳川家康」の十男「頼宣」が城主となり1621年には城郭を拡張しています。

 

1846年に落雷によって、「大天守」「小天守」が焼失しますが、御三家ということもあり直ぐにその再建工事が始まり1850年に完成しています。しかし、その天守群と天守曲輪は、太平洋戦争で焼失し、1958年にRC造りで外観復元されています。

 

「天守台」は、和歌山近辺で産出される「緑泥片岩」を横向きに使用した「野面積み」で、隅石には「宝篋印塔」等の転用石を基部に使用しているのを見ることが出来ます。

 

「和歌山城 天守曲輪」の石垣(緑色した「緑泥片岩」が目立つ)

RC造り外観復元「和歌山城 大天守」から続く「天守曲輪」の石垣(野面積み)

 

このことから積上げた時代は、天正・文禄期の1592~96年頃の「桑山家」時代のものではないかとのことです。

 

「天守台」の写真ですが、周囲の木々が遮り全体が写真では巧く映らず、枚数も少ないながらも掲出をします。

 

RC造り外観復元「和歌山城 大天守」の「天守台」(細かい石を積み上げた「野面積み」)

RC造り外観復元「和歌山城 小天守」の「天守台」

RC造り外観復元「和歌山城 大天守」と「天守台」

「天守曲輪」の「野面積み」石垣

 

 

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