「お城」の「天守台シリーズ」第39弾は、「長浜城」です。

 

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

長浜城」(滋賀県長浜市は、「浅井家」との「小谷城の戦い」で戦功を上げた「羽柴(当時は木下藤吉郎)秀吉」は、浅井家の旧領である北近江3郡を「小谷城」とともに与えられました。

 

しかし山城であることから統治がしずらいとのことで、当時「今浜」と呼ばれた琵琶湖湖畔に築城を行い、地名も「長浜」として1574年に「長浜城」が完成しました。

 

RC造りの模擬「長浜城天守」と「天守台」(東面)

 

その後、「本能寺の変」後に行われた「清須会議」によって、「長浜城」は「柴田勝家」の甥「柴田勝豊」に与えられましたが、「勝豊」は「勝家」との折り合いが悪く「秀吉」に当城を明け渡しています。

 

そして「長浜城」は「賤ケ岳の戦い」で戦功を上げた「山内一豊」に与えられますが、その後1590年に「掛川城」に移り、江戸時代に入り「内藤信成」が入城しますが、1615年に廃城となり「長浜城」の廃材の多くが「彦根城」建築の為に運ばれます。

 

1983年に建てられた三重四階のRC造りの模擬「天守」は望楼型ですので「秀吉」時代を意識していると思われます。また「天守台」も「野面積み」を採用されていて時代的には「天守」と合致していますが、隅石だけが一風変わった「算木積み」になっているのが残念です。

 

RC造りの模擬「長浜城天守」と「天守台」(東面)

RC造りの模擬「長浜城天守」と「天守台」(「野面積み」だが「算木積み」らしくない、北西方向から)

RC造りの模擬「長浜城天守」(南西方向から)

RC造りの模擬「長浜城天守」(南方向から)

 

模擬「天守」に隣接した北西の場所には、盛り上がった広い敷地がありますが、そこが「内藤信成」が築いた「天守台」跡だそうです。

 

「秀吉」が築いた「天守台」ではないですが、その最上部に「秀吉像」が建てられ、また「長浜城天守閣跡」碑も立っています。

 

「内藤信成」時代の「天守台」(南面)

「内藤信成」が築いた「天守台」上に立つ「秀吉像」と「長浜城天守閣跡」碑(南方向から)

「内藤信成」が築いた「天守台」上に立つ「長浜城天守閣跡」碑(東方向から)

「内藤信成」が築いた「天守台」上から模擬「天守」を眺める

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村