「お城」の「天守台シリーズ」第27弾は、「丸岡城」です。

 

重文「丸岡城 天守と天守台」

 

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

丸岡城」(福井県坂井)は、1576年に「柴田勝家」の甥「勝豊」によって築かれましたが、「織田信長」が亡くなった後の「清須会議」によって、「勝豊」は「長浜城」へ移り城代が置かれました。

 

「賤ケ岳の戦い」で「勝家」が敗死した後は、「丹羽長秀」や「豊臣秀吉」の家臣が入城します。

 

1601年に「結城秀康」が「福井城主」となって「丸岡城」はその支城となります。そして、1613年に「秀康」の付家老であった「本多成重」が城主となると大改修を行い、現在の姿を完成させました。二重三階の現存で重文の「天守」もその頃に築城されたとの説が採られています。

 

正面入口へ上がる石段の途中左側に石垣の台が見られますが、これは当時「付櫓」が付随していた「櫓台」の名残で、「天守」へはこの「付櫓」から入城したと考えられています。

 

重文「丸岡城 天守と天守台・付櫓台」

重文「丸岡城 天守と天守台・付櫓台」

 

ただ「天守台」の石垣は、1613年に積上げたとしては旧式の「野面積み・乱積み」で、隅石もあまり加工されていない大きい石を交互に積上げ反りも少ないので、「柴田勝豊」から「秀吉」の家臣が入城した時のモノかもしれません。

 

「丸岡城 天守台」(野面積み・乱積み、北面)

「丸岡城 天守出格子下の天守台」(野面積み・乱積み)

「丸岡城 天守台」(隅石は「算木積み」が未発達、北東隅)

「丸岡城 天守台」の隅石(大きい石の積上げ)

 

1948年に襲った「福井大地震」では、「天守」は三階屋根の一部を残し全壊、更に「天守台」も周囲に崩落したそうですが、「天守」は倒壊部材を使用しながら復元、「天守台」も修復が行われ現在の姿となっています。

 

重文「丸岡城 天守と天守台」(南面)

 

 

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