「お城」の「天守台シリーズ」第22弾は、「岐阜城」「加納城」です。

 

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

岐阜城」(岐阜県岐阜市)は、守護代であった「斎藤家」の家臣「長井家」が謀反を起こし奪い取ったお城(当時は「稲葉山城」)で、その後「斎藤」と名を改めた「斎藤道三」が城主となります。

 

RC造りの復興「岐阜城天守と天守台」

 

「道三」の息子「義龍」、孫の「義興」の時に「織田信長」が攻めて1564年に城主となります。そして当城を拠点として「天下統一」を目指します。

 

「安土城」を築城するまで、「岐阜城」は城下町と共に整備され、「天守」も築かれたようで、昨年「天守台」の一部が発見されました。

 

岐阜市ホームページ掲載の「信長期の天守台石垣」発見の内容 ↓クリックしてください

 

1582年の「本能寺の変」後は、「清須会議」で「信長」の三男「信孝」が城主となりますが、「秀吉」に反発して切腹に追い込まれ、「小牧・長久手の戦い」後は「池田輝政」が入城します。

 

その後、「豊臣秀勝」続いて「織田秀信」が入り、「関ヶ原の戦い」では東軍に攻められ落城し、1601年に廃城となります。

 

その「天守」「櫓」やその他建材を使用して「天下普請」で築城されたのが、現在のJR「岐阜駅」南側に拡がる「加納城」です。

 

明治時代に入り1910年に全国にいち早く先駆けて「天守」の復興を果たしたのが「岐阜城」でしたが、1943年に失火で焼失してしまいました。

 

1910年に再築された復興「岐阜城 天守」(「岐阜城資料館」内に掲出)

 

現在の「岐阜城天守」は、当時の「岐阜城天守」が移築されたとする「加納城」の御三階櫓の図面を参考にして、1956年にRC造りの三重四階で復興されました。

 

前述のように、「信長」時代の「天守台」が現在の「天守台」の中から一部発掘されたことから、明治時代に復興「天守」を再建する際に一旦全ての「天守台」を壊した上に建てたと考えられていましたが、「天守台」はそのまま現存していたようです。

 

「信長」時代の「天守台」の写真はないですが、現在の凄く荒々しい「野面積み・乱積み」の石垣を目にすることが出来ます。

 

「岐阜城 天守台」(「野面積み・乱積み」)

RC造りの復興「岐阜城天守と天守台」(「野面積み・乱積み」)

「岐阜城 天守台」(「野面積み・乱積み」)

「岐阜城 天守台」の隅石(「算木積み」は未発達)

「岐阜城 天守台」下の石垣

 

 


加納城」(岐阜県加納市)は、上記「岐阜城」で触れたように、「徳川家康」が「天下普請」で急がせて築城したお城でしたので、「岐阜城」の建造物をかなり移築したようです。

 

その中で、二の丸に置かれた天守代用の「御三階櫓」は、1601年に「岐阜城」の「天守」を移築したものと言われ、その図面も残っています。その移築した「天守」が「信長」時代のモノか「池田輝政」時代のモノかは不明とのことですが、「下見板張り」で「出格子状の石落し」「高欄・廻縁」「華頭窓」を持つ古式ながらも格式を備えていました。

 

「加納城 御三階櫓」の立面絵図(「岐阜城資料館」内に掲出)

 

「御三階櫓」台は、「岐阜地方気象台」の敷地北側に現存しており、高さは無く「野面積み・乱積み」となっています。

 

「加納城 御三階櫓」台(「野面積み・乱積み」で「二の丸」内)

「加納城 御三階櫓」台(「二の丸」内)

 

 

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