「お城」の「天守台シリーズ」第19弾は、「西尾城」です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「西尾城」(愛知県西尾市)は、「今川家」に属していましたが、「今川義元」の敗死に伴い「徳川家康」は「酒井正親」を入城させ、1585年に「酒井重忠」が近世城郭の基礎を造り、現在の「本丸」北東隅(「本丸丑寅櫓」の場所)に「天守」を築きます。
「家康」が関東に移動となった1590年に入城した「豊臣秀吉」の家臣「田中吉政」は、更に整備を行います。
そして、関ヶ原の戦い後、徳川譜代の「本多康俊」「太田資宗(すけむね)」「井伊直好」が順次入り、その間の1645年頃まで(「正保城絵図」には描かれているので)には、「二の丸」が整備されてその北西隅に「天守」が築かれたようです。
「西尾城 正保城絵図」では「二の丸天守」と「本丸丑寅櫓」両方が描かれている(城内の掲出分から)
「二の丸」に「天守」が築かれる例は極めて珍しく、「徳島城」天守等ごく僅かです。
「二の丸」に「天守」が築かれた後も、本丸北東隅に建っていた「天守」跡には「本丸」のシンボルとして三重の「丑寅櫓」が、残されていたたのではないかとも言われています。
現在の「二の丸」跡北西隅には、発掘調査で野面積みの「天守台」の一部が見つかり、復元された「天守台」と「南多門」「北多門」台があります。その前には、出土した大きな石を展示しています。
復元「西尾城 天守台」(「二の丸」跡の北西隅)
復元「西尾城 天守台」について(現地で掲出分から)
復元「西尾城 天守台と東多門台(手前)」(東側から)
復元「西尾城 天守台と南多門台(奥)」(東側から)
復元「西尾城 天守台」から出土した石
復元「西尾城 天守台」(「二の丸」跡の外 北東側から)
復元「西尾城 天守台」の外から木造復元「二の丸丑寅櫓」方向
復元「西尾城 天守台」(「二の丸」跡外 西側から)
復元「西尾城 天守台」(「二の丸」跡外 西側から)
また、「二の丸」に「天守」が建つまでは、天守代用だった三重「本丸丑寅櫓」は木造復元されています。その櫓台は、「御剱八幡宮」の境内に接しているので、特に南西面の櫓台石垣は当時のままの状態だそうです。
木造復元「本丸丑寅櫓と櫓台」(元「天守」跡に建つが、櫓台は当時のモノか不明、東方向から)
木造復元「本丸丑寅櫓と櫓台」(北方向から)
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