「お城」の「天守台シリーズ」第13弾は、「高島城」「松代城」です。

 

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

高島城」(長野県諏訪市)は、「武田家」滅亡後「徳川家康」の所領となりましたが、「家康」が関東に移された後は、「豊臣秀吉」の家臣「日根野高吉」が入城して1592年から1598年にかけて築城され、その間に「天守」も築かれました。

 

「天守台」は、文禄から慶長期に築かれたこともあり、「野面積み・乱積み」で、隅石は南西隅の「算木積み」は未だ丸みを帯びた石材を使用していますが、北東隅のそれは直方体の石材が使用されています。というのも、1786年に石垣の外側に足場を組んで「天守」を持ち上げ「天守台」の石垣を大幅に築き直しをしたそうです。

 

「高島城 天守台」の南西隅(「算木積み」の算木が丸みを帯びたもの、面は野面積み)

「高島城 天守台」の北東隅(「算木積み」の算木が直方体、面は打込接)

「高島城 天守台」の西面は野面積み)

 

また、「小天守台」が、「天守台」の南側に有りますが、その形状はどのようなものだったかは、不明だそうです。「小天守台」の写真が無いので位置だけ「天守」の写真から記載しておきます。

 

RC造りの外観復興「高島城 天守」の「天守台」左下に「小天守台」跡がある

 

「天守」は、三重の望楼型で屋根は杮葺き、修復を繰り返しながら幕末・維新まで存在しましたが廃城令で破却されました。

 

現在の「天守」は、古写真を基にして1970年にRC造りによる復興「天守」です。

 

RC造りの外観復興「高島城 天守」と「天守台」(北東方向から)

RC造りの外観復興「高島城 天守」の「天守台」(南方向から)

 

 

 

松代城」(長野県長野市)は、「武田家」時代は「海津城」と言われましたが、武田滅亡後は「織田家」家臣の「森長可(ながよし)」が入城します。そして「本能寺の変」後は、「上杉家」の支配となりますが、「上杉景勝」が会津へ移されると「豊臣家」の直轄領地となります。

 

現在城内に残されている「天守」相当の「戌亥隅櫓」の「櫓台」は、城内の中で最古の石垣であり「天守台」に相当するくらいの大きさと高さを誇っています。

 

「松代城 戌亥隅櫓台」(「天守」相当の櫓台、北西方向から)

「松代城 戌亥隅櫓台」(「天守」相当の櫓台、北東方向から)

 

その「櫓台」(「天守台」相当の)の加工方法と積み方は、「野面積み・乱積み」で、隅石は「算木積み」の技術がまだ完成されていない時期のものです。

 

ただ、櫓台後からは、織豊期の瓦は出土していますが、建物の礎石はみつかっていないことから「天守」の存在は不明です。

 

「松代城 戌亥隅櫓台」(「隅石」部分の「算木積み」は未発達、「本丸」跡内の東方向から)

「松代城 戌亥隅櫓台」(「天守」相当の櫓台に上がる石段)

「松代城 戌亥隅櫓台」(「天守」相当の櫓台、「本丸」跡内の南方向から)

 

 

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