「お城」の「天守台シリーズ」第10弾は、「江戸城」の続き、及び「水戸城」「小田原城」です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「江戸城」(東京都千代田区)は、昨日の第9弾で、「寛永度天守」が焼失後に補修された「天守台」についてお届けしましたが、3代目「天守」以降に「天守」が建てられない中で、城内の「本丸」内にあり三重櫓であった「富士見櫓」が幕末・維新まで天守代用としての位置づけにありました。
「富士見櫓」は、「本丸」の南端の高台に建ち、真下の「三の丸」や「西の丸」を見下ろすとともに、他所からも良く目立つ絶好の場所に建っていました。
櫓台は、高さがある「打込接・乱積み」の石積みとなっています。
現存の天守代用「江戸城 富士見櫓」(櫓台は「打込接・乱積み」、算木積みは導入)
現存の天守代用「江戸城 富士見櫓」
現存の天守代用「江戸城 富士見櫓」(「本丸」跡側より)
「水戸城」(茨城県水戸市)では、「徳川頼房」によって1625年から開始された大改修の際に、「二の丸御殿」の敷地の南崖付近に天守代用の「御三階櫓」が築城されました。
この天守は1764年に焼失しましたが2年後に規模を縮小して再建され、それが太平洋戦争の空襲で焼失するまで現存していました。
この「御三階櫓」は特異な形をしていて、三重櫓ですが内部は五階、一重目内部が三階となっています。地面に石垣2~3段を敷きその上に直接建てられ、一重目の下部は雨水からの保護を兼ねた石垣風の海鼠壁で覆っていました。
現在は、「二の丸御殿」跡には、「水戸第三高校」が建っていますので、その跡地には入ることが出来ません。
古写真が、掲出されていましたので、掲載しておきます。
「水戸城 御三階櫓」の古写真(石垣の替わりに「海鼠壁」、城域内にて掲出写真)
「小田原城」(神奈川県小田原市)は、「豊臣秀吉」の「小田原平定」によって「徳川家康」が関八州に移されますが、箱根を守る重要拠点との位置づけで重臣の「大久保忠世」を置きました。
しかしその子「忠隣(ただちか)」は、「豊臣秀頼」に内通しているとの噂が有り所領没収となり「家康」の命令でかなり破却されます。
「豊臣家」滅亡後、1632年に入城した「稲葉正勝」は、近世城郭として整備をしていきます。その後、2度の大地震によって「天守」が倒壊し、1706年に「天守」が再建され、明治時代に解体するまで存在しました。
1960年にRC造りで復興された「天守」は三重四階の付櫓が付随する「複合式天守」で、解体時の古写真や、「大久保神社」所蔵(現在、小田原城天守内に展示)の雛形を基にして再建されました。
RC造り復興「小田原城 天守」の「天守台」(「打込接・布積み)
RC造り復興「小田原城 天守」(「複合式天守」)
RC造り復興「小田原城 天守」(「複合式天守」、南側から)
RC造り復興「小田原城 天守」(「複合式天守」、東側から)
古写真「小田原城 天守」の解体の様子(撮影可能のフロア内に掲出写真)
「小田原城 天守」の雛形(撮影可能のフロア内に掲出写真)
「天守台」は、震災などで倒壊していたものを復興したもので、高さが11.5mもあり、「打込接・布積み」となっています。「本丸」側には二段構えとなっていますが、それの活用については良く分かりませんでした。
RC造り復興「小田原城 天守」の「天守台」(11.5m、手前の二段構えは何か不明?)
RC造り復興「小田原城 天守」の「天守台」(「算木積み」がシッカリしている)
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