「お城」の「天守台シリーズ」第9弾は、徳川将軍260年間の拠点であり最大規だった「江戸城」です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「江戸城」(東京都千代田区)は、1590年に「豊臣秀吉」による「小田原平定」によって「徳川家康」が入城しますが、「家康」が江戸幕府を開き将軍となったのを契機に天下普請で拡張工事が行われ「慶長度天守」が築かれます。
その後、引続き増築工事が進められると共に、2代将軍「秀忠」の時代の1622年には「元和度天守」が完成し、3代将軍「家光」の時代の1638年には、本体の高さが約44.8mという全国一の高さを誇る五重五階地下1階の層塔型「寛永度天守」が完成します。
「江戸城」は、「家康」が開始して以来、約50年を要して1660年に一応の完成を見ました。
しかし、1657年の「明暦の大火」によって、「天守」等多くの城郭建造物が灰燼に帰しました。
「天守台」の解説(現地にて掲出)
そして、4代将軍「家綱」は、焼けただれてた「天守台」の石垣の取替を、加賀「前田藩」に命じて積み直しが行われます。その「天守台」上に4代目の「天守」建築の議論が沸き上がりましたが、当時の執政「保科正之」は天守に巨額の出費をすることの無駄を訴え建築はされませんでした。
現在、目にすることが出来る「天守台」はその時に積み直されたモノで、「寛永度天守台」よりは小さくなっているものの、一つ一つの石の大きさや高さには迫力を感じることが出来ます。
「江戸城 天守台」(「大奥」跡付近、南東方向から)
「江戸城 天守台」(人と比べるとその大きさが際立つ、南東隅)
「江戸城 天守台」(南東隅の「隅石」を見上げる)
「江戸城 天守台」(東面は激しく焼けただれている。これは1859年10月の「安政大火」時のもの)
「江戸城 天守台」(東面は激しく焼けただれている。これは1859年10月の「安政大火」時のもの)
「江戸城 天守台」(北東方向から)
また、加工方法・積み方も「切込接・布積み」の最新工法が導入されていることが解ります。
「江戸城 天守台」(南面は、8代将軍「吉宗」時代に積み直した箇所とか)
「江戸城 天守台」(「算木積み」も最良の工法)
「本丸大奥」跡側から望むと、「加賀藩」が得意とした色の異なる石積み、そして手前に「小天守台」を見ることができ、坂を上がって「天守台」に上るには、まず真直ぐに登り突当りを左に折れて坂道を上らなければならず、その大きさを実感できます。
「江戸城 天守台」(手前は「小天守台」で色の異なる石積みが施されている、黒っぽい石は伊豆石)
「小天守台」上に「井戸」
「排水口」
上りきった所には、「天守台」の切れ目がある入口を入ると地階1階に入り、現在はそのまま坂道が続いて1階に上がりますが、その広さも体験することが出来ます。
「江戸城 天守台」(坂を上って行きます)
「江戸城 天守台」(地階入口)
「江戸城 天守台」(地階部分)
「江戸城 天守台」(「天守」周回の西側)
「江戸城 天守台」(「天守」周回の北側)
「江戸城 天守台」(広々とした「天守台」上)
「天守台」から眺める「本丸」跡と、その後方に控え聳え立つ大手町のビル群との新旧対比には目を見張るものがあります。
「天守台」から眺める「本丸」跡とビル群(南方向)
「天守台」から眺める「本丸」跡とビル群(南方向)
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