シリーズ復活初日の「首里城」(沖縄県那覇市)前編では復元の「守礼門」「歓会門」を、昨日の中編では、復元の「久慶門」「瑞泉門」「漏刻門」をお届けしました。
前編↓
中編↓
そして本日82弾、「首里城」(沖縄県那覇市)後編では、「右掖(うえき)門」と「淑順(しゅくじゅん)門」をお届けします。またこれ以外にも、「美福門」「継世門」が復元されていますが、写真がないのでリンク先からご覧ください。
「首里城」絵図
「首里城」の歴史と城主については、昨日に投稿した通り下記に記載します。
「琉球」は、14~15世紀初頭にかけて、北山・中山・南山が覇権を争う戦国時代でしたが、中山の「王武寧(ぶねい)」がいち早く、明朝に対して琉球の覇者としての地位を認めてもらい(冊封-さくほう)、明皇帝に忠誠を誓って(朝貢-ちょうこう)貿易面でのメリットを享受しました。
しかし、1407年に南部の「尚巴志(しょうはし)」が中山の拠点を攻略しその覇権を手に入れて、本拠地として「首里城」に移し、その後整備と強化を進めます。そして1416年に北山を、1429年に南山を平定して琉球を統一しました。
その後、「尚円(しょうえん)」のクーデターによって、「第一尚氏王朝」は崩壊して、「第二尚氏王朝」となり、その後はその子孫が続きます。
ただ、1609年に薩摩軍が琉球に侵攻したことで、当時の「尚寧(しょうねい)」は、薩摩軍に連行され「徳川家康・秀忠」と謁見し、薩摩の琉球政治下に組込まれるとともに、中国(明から清へ)にも朝貢する二重の従属的関係を続けることになります。
1879年に、明治新政府は、19代「尚泰(しょうたい)」に対して「首里城」の明け渡しを迫り、琉球王国は崩壊します。
太平洋戦争末期に、沖縄守備軍が、「首里城」の地下に司令部壕を造ったことで、アメリカ軍に攻められ「首里城」は消滅してしまいました。
「右掖(うえき)門」は、「久慶門」から東へ約160mの石畳を歩んだ先に有り、当門を潜って「淑順門」へ通じる門で「北殿」東側の坂下に位置します。現在は、「有料エリア」の出口門として利用されていています。
門の形式は、「瑞泉門」「漏刻門」と同様に、両脇の切石積みの石垣の上に櫓が乗る櫓門で、正面の「扁額」には「右掖」と描かれています。
太平洋戦争沖縄戦で焼失したので、1992年に城壁部が復元され2000年に櫓部分が復元されました。
復元「首里城 右掖(うえき)門」(城内側から)
復元「首里城 右掖(うえき)門」(城内側から)
復元「首里城 右掖(うえき)門」(城内側から)
古写真「首里城 右掖(うえき)門」(城内で掲載分)
「淑順(しゅくじゅん)門」は、前述の「右掖(うえき)門」から繋がり、国王やその親族が生活をした「御内原(うーちばる)」の特に「奥」に仕える女官が出入りする門でした。
この門形式も、「右掖(うえき)門」と同様に、両脇の切石積みの石垣の上に櫓が乗る櫓門で、正面の「扁額」には縦書きで「淑順」と描かれています。
こちらは、2010年に復元されました。
復元「首里城 淑順門」(正面)
復元「首里城 淑順門」(城内から)
古写真「首里城 淑順門」(城内に掲出分)
「美福(びふく)門」は、内郭に建てられた門で、「継世門」が築かれるまでは「首里城」の東門でした。「歓会門」と同じように門の両側には石獅子が置かれていたので「シーサー御門(うじょう)」と呼ばれました。
門の形式は、「右掖門」「淑順門」と同様に、両脇の切石積みの石垣の上に櫓が乗る櫓門で、正面の「扁額」には縦書きで「美福」と描かれています。
こちらは、2019年に「継世門」とともに復元されました。
こちらからご覧ください
「継世(けいせい)門」は、外郭の「美福門」の東側に建てられた門で、倭寇に備えて建てられたということが、門の両側の石碑に記載されています。
門の形式は、「歓会門」と同様の石造りの「アーチ門」の上に櫓が乗る櫓門です。
こちらは、2019年に「美福門」とともに復元されました。
こちらからご覧ください
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