8/3(火)~5(木) 二泊三日の城巡りツアー3日目の最終訪問城は、「小田原城」(神奈川県小田原市)です。

 

まず今回も、「小田原城」の歴史と城主(藩主)について触れておきます。

 

戦国時代の「小田原城」は、「北条氏五代」の始祖「北条早雲」が、鎌倉公方「足利持氏」の麾下「大森家」から奪い城主となります。その後、「上杉謙信」や「武田信玄」が「小田原城」を攻めますが、難攻不落でいずれも撤退します。

 

そのうちに、「北条氏康」が三の丸を築き拡張し、「北条氏政」は総延長約9㎞もの「総構」を築いて万全の態勢の城郭とします。

 

そして「豊臣秀吉」の全国統一事業に最後まで抵抗した「氏政」は、「小田原城」を見下ろせる「石垣山」に建てられた「石垣山城」の迫力に押されて「秀吉」に屈して、開城した上で切腹することになります。

 

「後北条家」の滅亡後すぐに関東入国した「徳川家康」は「大久保忠世」を入城させます。しかし、二代目「忠隣(ただちか)」は、「本多家」親子との政争に敗れて改易され、「小田原城」は一時幕領となります。

 

その後、「家康」に対する貢献度が高かった「大久保家」は、「忠隣」の孫である「忠朝(ただとも)」の家系が10万3千石で「小田原城」に返り咲き、幕末・維新まで続きます。

 

さて、JR「小田原駅」到着は13時16分で、約3時間10分の滞在時間ですので、事前に戴いていた「小田原城総構マップ」の「歴史と文化の香るまち散策コース」の所要時間は2時間10分とのことでしたので、ゆとりを持ってサイクルが出来ると見ていました。

 

「小田原城総構マップ」

 

レンタサイクルの手続きに少し時間を要しましたが、いざ出撃! 

 

これから行くべき場所をマーキングした上述の「マップ」を片手にまずは、最も近い「旭丘高校」の敷地辺りの「弁財天曲輪」跡を目指しました。ここは、「二の丸」の北側を守る曲輪で、戦国時代には、「上杉謙信」や「武田信玄」がここから攻めたと解説板に記載されていました。

 

「弁財天曲輪」跡

 

次に目指すは、「弁財天通り」を南下し「お堀通り」沿いにある「幸田口門」跡とそれに付随する「土塁」です。「幸田門跡記念碑」という左から書かれた古めかしい碑がありましたが、「土塁」がはっきりわからないのでその裏手へ廻ると階段から上がれるようになっていました。結構な長さが残っている「土塁」でしたので、非常に満足しました。

 

「幸田門跡記念碑」

「幸田口門跡」土塁

 

地図を見ると、ここから「大手門跡(鐘楼)」はすぐ近くです。しかし、そこから道に迷ってしまい、ちょっと時間を費やしてしまいました。

 

途中「大手門跡」の場所を尋ねるも意外と皆さん知らないので、最後に聞いた方には「鐘楼」跡と尋ねたら解ったようで、丁寧に教えていただきました。小田原では「鐘楼」で通っているのでしょう、というか、城マニアだけが「大手門」跡と言うのでしょうね~

 

以前、車の中からチラっと眺めただけでしたが、結構立派な「大手口門櫓台」で、後程見ます「銅(あかがね)門」と同サイズの「渡櫓門」と「冠木門」で構成されていたそうです。「鐘楼」は、300年以上前から時を告げていたそうで、大正時代に「櫓台」の上に移築されたそうです。

 

「大手門口門櫓台」と「鐘楼」

 

「大手門」跡の道筋からはもう「水堀」が見えています。幅広の「二の丸堀」と赤い「二の丸橋」と「二の丸隅櫓」とのコラボは非常にいいです。

 

主郭部絵図(各所に掲出)

復元「二の丸隅櫓」、「二の丸橋」、「二の丸堀」

木造復元「二の丸隅櫓」

 

「二の丸隅櫓」は、関東大震災まで唯一残っていた城郭建造物でしたが、震災でダメージを受けたので1934年に木造復元された櫓です。見る場所を替えて「隅櫓」の写真を撮りました。

 

木造復元「二の丸隅櫓」

 

「二の丸橋」は渡らずに、少し南西に移動して「馬出門土橋」から「馬出門」に入ります。

 

「馬出門」と手前は「馬出門土橋」

 

「馬出門」は、「三の丸」から「二の丸」へ入る門で、大きな桝形を形成していて、「馬出曲輪」へ入る門を「内冠木門」と呼んでいますが、どちらも「高麗門形式」で建っています。柱や扉には欅材を使用して2009年に復元されました。

 

木造復元「馬出門 内冠木門」(桝形内から)

木造復元「馬出門 内冠木門」(「馬屋曲輪」内から)

 

「馬屋曲輪」は、「二の丸」の南西部分を守備する「銅(あかがね)門」から「住吉橋」の先に拡がる「馬出」的曲輪で、かなり広い敷地面積を取っています。その南隅には「馬屋曲輪二重櫓台」が復元され「雁木」も見られます。

 

「馬屋曲輪」跡

「馬屋曲輪二重櫓台」

 

また、「切石敷井戸」跡があり、井戸周囲には凝灰岩の切石が敷かれ、外側は円形ですが中側は六角形という特殊な構造から、徳川家将軍馬用の井戸だったようです。

 

「切石敷井戸」跡

 

その西側に繋がる「曲輪」は、「茶壷曲輪」跡という優雅な名の付く曲輪です。ここには、将軍献上用の宇治茶を道中保管する「茶壷蔵」が建っていたそうでで、「馬屋曲輪」とともに将軍家御用達のエリアだったようです。

 

「茶壷曲輪」跡

 

「水堀」に架かる「住吉橋」を渡ると「銅門(あかがね)門」による大桝形が構えます。入口は埋門形式の「内仕切門」で、左手に折れると13間もの長さがあり堂々とした「銅門櫓門」が建ちます。名前の由来通りに、「渡櫓門」の門扉や柱には「銅板」が貼られています。1997年に木造復元されました。

 

木造復元「銅(あかがね)門」(「内仕切門」と「渡櫓門」)

木造復元「銅(あかがね)門 内仕切門」(「埋門」形式)

木造復元「銅(あかがね)門 渡櫓門」(左折れ)

木造復元「銅(あかがね)門 渡櫓門」

木造復元「銅(あかがね)門 渡櫓門」の門柱や門扉に「銅板」貼り

木造復元「銅(あかがね)門 渡櫓門」(「二の丸」跡側から)

木造復元「銅(あかがね)門 渡櫓門」櫓台

木造復元「銅(あかがね)門 渡櫓門」と「常盤木門」

 

桝形の周囲は土塀が囲い、雁木で「土塀」に上がれるようになっており、「控柱」や「狭間」を設けています。

 

「銅門」桝形内の「土塀」と「控柱」

 

この門を抜けますと、右手に広場が拡がっている敷地は「二の丸御殿」が建っていた所です。どこのお城もそうですが、ここも敷地一杯に御殿建築が建てられていたようです。

 

「二の丸」跡

「二の丸御殿」絵図(解説板に掲出)

 

サイクルをここに置いて、「本丸」跡を目指します。現在はしょうぶ園でしょうか既に花は咲いていませんが「本丸堀」跡を赤い「常盤木橋」を渡り「常盤木門」に迫ります。

 

「本丸」跡のしょうぶ園

 

橋を渡り坂道となった入城道の南側と突当りには「多聞櫓」が睨みを利かせ、右に折れて「常盤木門 渡櫓門」に入ります。1706年に、「南多聞櫓・北多聞櫓」を設けて桝形にしました。

 

RC造復元「常盤木門」を構成するRC造「多聞櫓」

RC造外観復元「常盤木門 渡櫓門」

RC造外観復元「常盤木門 渡櫓門」(「桝形」内から)


「常盤木門」の謂れですが、「常盤木」とは常緑樹のことで、小田原の街と「小田原城」が永遠に繁栄するようにとの願いが込められているそうです。

 

明治時代の初めの古写真が残っていますが、かなりのダメージを受けていたので破却したようで、1971年にRC造で復元されました。現在内部は資料館となっています。

 

RC造外観復元「常盤木門」(「天守」から)

古写真「常盤木門 多聞櫓」

 

「本丸」跡は、「本丸御殿」が建っていたそうで広いです。この炎天下、結構なお客様がいるのには驚きました。「小田原城」は人気があるんだ!

 

「本丸」跡

 

次回のブログでは、「天守」から「総構」をお届けします。

 

 

 

 

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