只今、「近畿地方」以西の西日本の「櫓門」をお届けしています。「櫓門」といえば、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門でした。
「東日本のお城の櫓門」の総集編及び「西日本のお城の櫓門」前半はこちらからご覧ください↓
本日第61弾は、「福山城」(広島県福山市)の「櫓門」(楼門)です。
「福山城 筋金門」(重要文化財)
重文「福山城 筋金門」(柱を見せる「真壁造り」、「桝形」内から)
関ヶ原の戦い後、安芸・備後国は「福島正則」の所領となっていましたが、「正則」の本拠城「広島城」で行った石垣修復を幕府の了承が得ていないとの理由で転封となります。
その後、「徳川家康」の従兄弟にあたる「水野勝成」を、西国外様大名の抑えとして配置し「福山城」は1622年に完成させました。
「水野家」は後継者が無く断絶し、その後「奥平松平家」が入城、更に1710年に「阿部家」が入りますが、幕末の老中「阿部正弘」を始め、歴代藩主は老中など幕府内で重要な職務を担っていましたので、江戸での駐在が殆どで「福山城」には入ることがなく、幕末・維新まで続きました。
重文「筋金門」は、「本丸」に入る重要な門で、三重の「伏見櫓」とはコの字で「多門櫓」で繋がっています。「内桝形」ですが、桝形内が傾斜しているので一の門は築かれなかったそうです。
重文「福山城 筋金門」(「桝形」内から)
重文「福山城 筋金門」(南側から)
「伏見城」の廃城に伴って、「伏見櫓」や「御湯殿」等とともに「伏見城」から移築された門です。
両脇を石垣に乗せる「渡櫓門」形式で、外壁は窓上下の「長押」と縦に立つ柱が見える「真壁造り」となっています。
重文「福山城 筋金門」(外壁に浮かぶ柱、「本丸」側から)

重文「福山城 筋金門」(柱を見せる「真壁造り」、「本丸」側から)
重文「福山城 筋金門」と木造復元「御湯殿」、外観復元「月見櫓」が並ぶ











