只今、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門であった「櫓門」シリーズをお届け中です。

 

今回第5弾は、「出羽松山城」(山形県酒田市)と「上山城」(山形県上山市)の「櫓門」をお届けします。

 

出羽松山城 大手門」(現存の県指定文化財)

 

県重文「出羽松山城 大手門」(松山城跡「松山歴史公園内」)

 

戦国時代に、「上杉家」と「最上家」の争いの中で「上杉家」の支配下に置かれましたが、関ケ原の戦い後に、「最上家」の所領となります。しかし、お家騒動で取り潰しとなったことから、「酒井忠勝」の所領となります。

 

この「酒井忠勝」は、同時代に幕閣として大老になり「小浜城」城主の始祖だった「酒井忠勝」とは、同姓同名の別人です。

 

1647年に「忠勝」の三男「酒井忠恒」が庄内藩の支藩としてこの地に「中山陣屋」を設けて藩庁とし、1664年には「松山陣屋」と地名を改めます。

 

1760年に三代目の「忠休」が幕閣の若年寄として手腕を発揮したことから、城主格となり幕府からお城を築くことが許可されますが、引続き「中山陣屋」時代からの「御殿」を中心に、「大手門」と「物見櫓」のみのお城でした。

 

大手門」は立派な「櫓門」で、「城主格」となった時に屋根上に青銅製の鯱を上げました。当門は「三の丸」の西側に建てられますが、1790年に落雷で焼失したことから、酒田の大地主であり大富豪であった「本間家」の寄進によって再建されました。

 

現在は、城跡を整備した「松山歴史公園」内にモニュメント的に建っています。この場所に再移築される前には、一時「松嶺高校(現在廃校)」の校舎の一部になっていましたが、そこから分離してこちらへ移築されました。

 

1階は「素木造り」ですが、二階は「総塗籠め白漆喰」になっていて、上下が対照的です。窓は、引き戸窓で正面、裏面共に5枠、横面は3枠も取っています。また屋根瓦は、積雪寒冷地特有の「赤瓦」を採用しています。

 

県重文「出羽松山城 大手門」(松山城跡「松山歴史公園内」、正面より)

県重文「出羽松山城 大手門」(「赤瓦」が目立つ)

県重文「出羽松山城 大手門」(横から)

県重文「出羽松山城 大手門」(裏側の2階にも窓が5枠)

県重文「出羽松山城 大手門」に上がる青銅製の「鯱」

 

 

 

上山城 櫓門」(RC造模擬)

「最上家」一族の「里見満長」が築城し、「里見家」は関ケ原の戦い時に「直江兼続」軍を撃退しますが、「最上義康」殺害事件によって追放され、その後に「最上義光」の五男が入城します。

 

その後「最上家」がお家騒動で取り潰され、1622年に「松平(能美)家」が4万石で入城します。更に「蒲生家」から「土岐家」が城主となり、近世城郭が築かれます。

 

「土岐家」の国替えで一時「上山城」は廃城となりますが、「金森家」が入り城は復活、1697年に「松平(藤井)家」が3万石で入ってからは10代続いて幕末・維新を迎えます。

 

櫓門」は、1982年に建てられ「郷土歴史資料館」として利用されている模擬「天守」の入口を櫓門としたものです。

 

石垣の上に渡した櫓は、「白漆喰総塗籠め」にして、壁には格子状の長い窓を設けその上下には長押を施し、屋根の片方には金の鯱を上げて非常に立派に仕上げたものとなっています。

 

写真が、模擬「天守」とともに写した1枚しかありませんでした。

 

RC造り模擬「上山城 櫓門」

 

 

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