「全国の“二重櫓”を巡る」をテーマで、「現存」と「復元・復興・模擬」の「二重櫓」の多様性(構造、形式、用途、目的、名称等)を実感しながら、北から南にかけてお届けしています。
本日第39弾目は、「大村(玖島)城板敷櫓、唐津城 化粧櫓」の二基です。
「大村(玖島)城 板敷櫓」(長崎県大村市)
大村の地には、古くは「藤原純友」の孫「直澄」が本拠として入り「大村家」を名乗りますが、15世紀後半には「有馬家」に従属します。
その後「有馬純忠」が「大村純前(すみあき)」の養子となり家督を継ぎ、キリシタンの洗礼も受け、本拠地を「三城(さんじょう)城」としますが、「純忠」が亡くなると息子「喜前(よしあき)」が家督を継いで「大村城」を築きそこへ拠点を移します。
関ヶ原の戦いは東軍に参加したので領地は安堵され、更にキリスト教から改宗も行い、「加藤清正」の助言の下「大村城」の修築が行われています。以降は、幕末・維新まで「大村家」が統治します。
「板敷櫓」は、前に広がっていた「舟入場」と「大手口」を監視する目的で、「二の丸」南側の高石垣の上に建てられていました。その為、監視しやすいように、東・南・西面の各壁に、1階には二か所、2階には一か所の窓を設けています。
外観は、1階のみ「下見板張り」で、二か所の隅には「腰袴型石落し」を設けています。
当城は、「加藤清正」流の「武者返し」等が、「板敷櫓」台の高石垣に見られます。
現在の櫓は、1992年に復興櫓として再建されました。
復興「板敷櫓」(1階だけが下見板張り、監視ができるように東・南・西面に窓)
復興「板敷櫓」(「武者返し」の高石垣上に建つ)
復興「板敷櫓」(南面)
復興「板敷櫓」(「裾袴型石落し」を装備)
復興「板敷櫓」(裏の入口)
肥前唐津は、「本能寺の変」後、「豊臣秀吉」の家臣となった「寺沢広政」の息子「広高」が、「秀吉」の朝鮮出兵で後方部隊として大きな貢献があったので与えられます。
関ヶ原の戦いでは東軍に付き所領が安堵され更には天草も加増されて、その石高に見合う立派な「唐津城」を築きます。しかし息子の「堅高」の時に、島原の乱、天草一揆で天草を没収されたことから失意で自殺し「寺沢家」は取り潰しとなります。
その後「天領」を経て、「大久保家」「大給松平家」「土井家」「水野家」といった譜代大名が目まぐるしく替わり、「小笠原家」が1817年に入って幕末・維新を迎えます。
「化粧櫓」は、絵図では「天守」台の北側「西門」を挟んで描かれているようですが、現在は、「模擬天守」「西門」に続いてRC造りの復興で建てられています。
急斜面を利用して櫓台が築かれ、2011年に再築した際には、櫓台、石塁、石段、溝等の遺構と地鎮祭祀が出土したそうです。
復興「化粧櫓」(「西門」の北側)
復興「化粧櫓」(「模擬天守」から見下ろす)
復興「化粧櫓」(「模擬天守」の左側)
因みに、現在建っている「天守」は前述のように立派な「模擬天守」ですが、江戸時代の絵図にも資料にも「天守」が建てられた記録はないとのことです。
「模擬天守」と復興「化粧櫓」(左側)
「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。
こちらにも「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。










