三重県お城廻りの五番目は、「久居陣屋」(三重県津市久居町)です。
久居陣屋城下図(「高通公園」内に掲出、公園は左下の赤い地点)
事前調査では、「久居駅」からは歩くと25分位だったのでバスで最寄付近まで無いか調べると、三重交通榊原温泉線の「新家バス停」が最寄ということが判り、バスの時間も少し待てば乗れそうでしたのでそのように計画を立てていました。
バス時間待ちの間に、駅から少し離れていますが藩主の菩提所である「玉せん寺(ぎょくせんじ)」に行きました。
このお寺の「長屋門」は美しい形だけでなく、寺院内には「初代藩主 藤堂高通と高堅の木像」「藤堂高虎画像」があるそうですが、時間の都合で庭にある「藤堂高堅(たかかた)」と「高陳(たかのぶ)」の五輪塔だけ写真を撮りました。
「玉せん寺」の山門
「玉せん寺」内の「藤堂高堅(たかかた)」と「高陳(たかのぶ)」の五輪塔
しかしここまで歩いて来たなら、西側に向かって歩けば20分弱で陣屋跡地である「高通(たかみち)公園」に着くだろうと思い、「久居駅」迄戻らずに進み始めました。
途中、藩校跡で現在は「誠之小学校」の前を通り、少し道を迷いながらも陣屋跡である「高通公園」に到着しました。
藩校跡に建つ「誠之小学校」
「久居陣屋」跡をお届けする前に、すこし当陣屋の藩主についてお話をしておきます。
「久居藩」は、「津藩」二代藩主「藤堂高次」が次男の「高通(たかみち)」に5万石で分与してできた支藩です。
その後も、「津藩」との関係は緊密で、藩政策や各種制度は「津藩」のものがそのまま使用されていました。また、本家「津藩」で嗣子がいない場合は、「久居藩」から養子が出されたりしました。
支藩として当陣屋を築く際には、幕府に石垣造りの御殿建築を申請しましたが、それは認められず土塁造りとなりました。
ただ、「無城大名格」ではありますが5万石という城主格の小大名並みの石高で、家臣も多かったこともあるので、城域は「御殿」が置かれた西端から東にかけてかなり広範囲が城下となっていたようです。
「久居陣屋城下図」(左下の赤い点周囲が陣屋御殿があったエリアで、城域は東にぐっと広がり家臣が住んでいた)
現在の「陣屋」跡は、初代藩主「藤堂高通」の名前から採った「高通公園」とその「東側」に建つ「久居中学校」の敷地だということです。
「陣屋」跡の「高通公園」と「久居中学校」校舎(西側から東方向)
「陣屋」跡の「高通公園」
「陣屋」跡の「高通公園」と「久居中学校」校舎(北西側から南東方向)
「陣屋」跡の「久居中学校」校舎(北西側から南東方向)
「陣屋」跡(「高通公園」の北側の住宅地)
南側は断崖絶壁となり木々の間からは遠くを望むことができる丘陵に建ち、城域の西側にはその「土塁」跡や周囲を取り巻く「空堀」が残っています。
「空堀」跡(「陣屋」跡の西側)
「空堀」跡と「土塁」跡(「陣屋」跡の西側)
「陣屋」跡の南側の断崖絶壁
「土塁」跡(「陣屋」跡の西側)
「土塁」跡(「陣屋」跡の西側)
公園内には、幾つかの地元の功労者を称える大きな碑が立ちますが、その中でひと際目立っていたのが、1921年に建立された「御殿山記念碑」です。これは、「高通」入府250年を記念して立てられた碑で、裏には何人かの藩主の功績を記述しています。
「御殿山記念碑」
この地にとっては、今も含めて「久居藤堂家」が如何に愛され続けてきたかを示す証ではないかと思いました。
この公園の北側には、「久居陣屋」の歴史と前掲した「陣屋エリア図」が掲出された案内板が立っています。
この場所から北に進み、「久居駅」迄乗車する三重交通のバス停「新家(しんけ)」に向かいました。途中、「空堀」のような所を越えて行きますが、先ほどの「陣屋エリア図」と照らし合わすと、その辺が「米蔵」「木口門」跡だったのかな~と勝手に思い写真だけは納めました。
「米蔵」跡「木口門」跡?
「榊原温泉」方面から来るバスに無事乗車できて近鉄「久居駅」へ到着、次は「津城」へ向かいます。
下記の「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。
また下記の「ポチ」も、どうぞよろしくお願いいたします。

















