“三重県お城廻り”の四番目は、「松坂城(前編)」(三重県松阪市)です。情報と写真が多いので、2回に分けてお届けします。

 

「表門」跡正面の「松坂城跡」碑と「本丸」跡石垣

 

ホテルの朝食は各種パン食べ放題でゆで卵はありましたが、果物やヨーグルトが無く寂しいでした。しかし、美味しいパンでしたので一杯食べて、荷物はフロントに預け極力軽装で7時15分にホテルを出ました。

 

お城までは徒歩15分となっていましたが、途中、「旧長谷川治郎兵衛家」「本居宣長宅跡(建物は「松阪城」内に移築)」「牛銀」「旧小津清左衛門家」「三井家発祥の地」の旧所名跡を一通り写真に納めましたのでここで掲載しておきます。この一帯は、「旧参宮街道」界隈でもあったので、昔の名残が見られました。

 

「旧長谷川治郎兵衛家」

「本居宣長宅跡(建物は「松坂城」内に移築)」

「牛銀本店」(すき焼き専門店)

「旧参宮街道」

「旧小津清左衛門家」

「三井家発祥の地」

 

「松坂城」の歴史と城主について、少し触れておきます。

 

「蒲生氏郷」が、「豊臣秀吉」からこの地を与えられて「松ヶ島城」に入りますが、手狭であったことから「松坂城」を築城し1588年に完成させます。

 

しかし「秀吉」は、「小田原征伐」を終えて「奥羽仕置」を行うにあたり、信頼がおける「氏郷」を陸奥会津42万石で入封させて、「伊達家」の監視をさせます。その後「服部一忠」が入るも「豊臣秀次」事件に連座させられ、「吉田重勝」が入城して現在のような城郭に仕上げています。

 

弟の「重治」が「大坂夏の陣」の功績で「浜田城」へ移封後は、「紀州藩」の直轄地になりますが、建造物は整備されず荒れるままになっていたそうです。

 

さて、前述の古い町並みのエリアから少し南下した所に「大手門」があった場所ですが跡表示があるだけです。しかし、その場所から見る「表門」跡は前日に訪れた「田丸城」にも劣らず素晴らしい面(ツラ)構えです。

 

「大手門」跡表示

「大手門」跡から見える「表門」跡

 

正面はL字型の枡形となっているので、まるで一文字石塁のように石垣が見え、真正面の「遠見櫓」から続く石垣と「本丸上段」にある「金の間櫓」の石垣の重なりと、両脇の石垣壁が延びる光景は入城者を圧倒させます。

 

「表門」跡正面の石垣 (左から入り、その後左折れ)

「表門」跡の石垣 (正面は「本丸下段」の石垣)

「表門」跡右側の石垣

 

「表門」跡に入って右折れ、左折れして正面に突き当たった所に「松坂城跡」碑と曲輪の案内板が立ちますので、それで大体の構成が把握できます。

 

城内図(「松坂城跡」碑脇に掲出、右上が「表門」)

 

右に折れて少し坂道を上がる途中には、左斜め上の「遠見櫓」からの監視を受け、突き当たった所には、現在左右対称の翼部が目立つ「松阪市立歴史民俗資料館」が建っていますが、明治時代末に建てられ「旧飯南図書館」として使用されていたもののようで、「国登録文化財」に指定されています。

 

「表門」跡を右に折れて坂道上がると左手には「遠見櫓」台

「松阪市立歴史民俗資料館」(「旧飯南図書館」、国登録文化財)

 

そこからヘアピンで南向きの坂道になりますが“表ニの門”の位置づけである「助左衛門御門」跡があります。秀吉政権~江戸時代初めにかけて城主だった「吉田重勝」の弟「吉田助左衛門」の功績にちなんで命名されたそうで、「表門」と同形式の「櫓門」が建っていました。

 

「助左衛門御門」跡

 

突き当りが「本丸下段」の入口で、「鐘の櫓」台下をヘアピンカーブで曲がり北方向に坂道を上った所が「藤見櫓」台です。「鐘の櫓」台は、「本丸上段」東側にある「金の間櫓」台から見下ろせる位置にあります。

 

「鐘の櫓」台(東面でこの先のヘアピンカーブで北上する)

「鐘の櫓」台(「金の間櫓」台から見下ろす)

「鐘の櫓」台(「藤見台」前から、南方向)

「藤見櫓」台

「本丸上段」跡の排水溝

上記「本丸上段」跡の排水溝から流れ出る雨水を受ける石でできた受け口

 

当城の主な櫓跡上には、「櫓名」表示が立ちますので非常に解りやすくなっています。

 

「本丸上段」の東面から西面の通路沿いに進むと「きたい丸」という非常に広い曲輪に出ます。この曲輪の各隅には櫓台が置かれていて、取り囲む周囲は内外両側ともに石垣で築かれ、ぐるりを「多門櫓」で取り巻いていたようです。

 

「きたい丸」跡(北側から南方向)

「きたい丸」の「角櫓」台

「きたい丸」周囲を取り巻く「多門櫓」台(内側も石垣積み)

 

西側から見下ろす風景は高く、はるか下には「三の丸」跡に造られた中学校の敷地が見られます。

 

「きたい丸」の高石垣と「三の丸」跡に建つ「殿町中学校」敷地

 

「きたい丸」の東側には「本丸上段」があります。その北西隅に「天守台」が築かれていて、当時は「三重天守」が建っていましたが、1644年の台風で倒壊しその後は再建されていません。

 

「天守台」(「きたい丸」から見上げる、南東隅)

「本丸上段」跡の入口(左に「天守台」がある)

 

その「天守」の瓦には金箔が施されていた可能性が発掘調査からも判り、同時代の「安土城」を参考にして築城されたのではないかと言われています。また、「きたい丸」側にかけて「付櫓」が連結していたことが遺構の「付櫓台」でも判ります。

 

「天守台」の手前(「きたい丸」側)に「付櫓台」

「天守台」(「本丸上段」跡の東側から)

「天守台」(「本丸上段」跡の北東側から)

「天守台」上(三重天守、「本丸上段」の「本丸御殿」や「敵見櫓」に連結していた)

 

「天守」は「本丸上段」にあった「本丸御殿」や「天守台」とも隣接する「敵見櫓」に連結し、更に「本丸上段」の東から北にかけて「本丸上段」を取り囲む「多門櫓」によって南東隅に建っていた「金の間櫓」に繋がっていたそうです。

 

「敵見櫓」台(奥が「天守台」、北東側から)

「本丸御殿」跡(「天守台」より、奥に見えるのが「金の間櫓」台)

 

「天守台」「敵見櫓」台から「本丸上段」周囲を取り巻く「多門櫓」台

 

「金の間櫓」は、他の櫓より規模が大きく、内部を金箔に張った部屋もあったようです。その上からの眺めは良く、今まで通ってきた「表門」跡、「助左衛門御門」跡、後述する「本丸下段」跡やその「月見櫓」跡を俯瞰できます。

 

「金の間櫓」台

「本丸上段」周囲を取り巻く「多門櫓」台(「金の間櫓」台から)

「金の間櫓」台からのぞむ「表門」跡方向

「金の間櫓」台(「本丸下段」跡から)

 

「本丸上段」の「金の間櫓」南から枡形で下る階段で「本丸下段」へ降ります。

 

前編は、ここまでとします。後編は「本丸下段」から見ていきますが、まだまだ見どころ満点の石垣をお届けしていきます。

 

 

下記の「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。


お城巡りランキング

 

こちらの「ポチ」もどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

PVアクセスランキング にほんブログ村