“三重県お城廻り”の三番目は、「田丸城」(三重県度会郡玉城町)です。

 

各曲輪が重なり合っている石垣(一番上が「天守台」)

 

「北畠家氏館」から再度国道「368号線」を使用して、16時20分に到着しました。遠くからでもこんもりとした丘陵が見えてきて、一目で「田丸城」跡であることが判りました。

 

レンタカーを「紀州藩同心屋敷跡」で現在は役所駐車場にしている所に車を置かせてもらい探索を始めました。

 

「紀州藩同心屋敷跡」(現在は役所駐車場)

 

ところで、「田丸城」も「松阪城」同様に、「紀州藩」の管轄内であったことを初めて知りました。ということで、「田丸城」の歴史と城主について少し触れておきます。

 

「北畠家氏館」のブログで触れましたが、南北朝時代に南朝の拠点として「北畠親房」が築城しますが、その後「織田信長」の伊勢支配の一環として、「北畠家」に「信長」の息子「信雄」を養子として入れさせます。

 

そして「田丸城」は大改修されて「稲葉重通」が城主となり、関ケ原の戦いでは東軍で手柄を立て加増されことから、更に大改修が行われて現在の姿になっています。

 

しかし1619年に、紀州徳川家の所領となり「徳川頼宣」の付家老「久野宗成」の領地となります。その後は、「久野家」は「和歌山城」下に居住した為、幕末・維新までは「城代」を置いていました。

 

縄張りがわかる城地図(北は右側、現地に掲出地図)

 

さて当城は先述したように遠くからでも見える丘陵上に建つ「平山城」ですが、周囲には「内堀」「外堀」を構えています。

 

縄張りは、大雑把に言いますと、丘陵部分の北側から南方向へ「北の丸」-「本丸」-「二の丸」が「連郭式」で繋がり、丘陵から下がった所に「三の丸」を構え、「内堀」と「外堀」の間には「代官屋敷」が置かれたようです。

 

私がレンタカーを駐車した外側は「外堀」が囲っていて現在でも北側から東側、南側にかけて現存しています。

 

「外堀」(「大手口」の北側)

 

「外堀」の丁度東真ん中に「大手口」があり、その石垣を見ることが出来ます。

 

「大手口」の石垣

 

そしてその真正面に構えるのが「二の門」跡で、その手前には「内堀」の一部が残っています。

 

「二の門」跡

「内堀」の一部

 

門内を左手に折れる枡形となり、次に右手に曲がり上がっていった所に拡がるのが「三の丸」跡です。そこには「三の丸御殿」が置かれていた敷地ですが、現在は「玉城中学校」の敷地となっています。

 

「二の門」跡(門跡を抜けた所から入口方向)

「三の丸御殿」跡に建つ玉城中学校(西側から)

 

出会った先生や生徒の皆さんは、「こんにちは!」と元気よく挨拶をしてくれますので、気後れすることなく見学ができました。

 

学校の敷地外の北側周囲を辿って坂道を上がっていった左手に見えるのが堀替わりの「蓮池」、そして奥に建つちっぽけな建物が、移築現存された「富士見門」です。

 

「堀」替わりの「蓮池」

 

「富士見門」は、「二の丸」の南東隅に建っていた「富士見櫓」に向かう入口の「長屋門」だったようですが、廃城後、民家に移築されて門の両脇の侍溜り部分が切り離されて納屋に使用されたことから、1984年に城内へ再移築された時には真ん中の門部分しか残っていなかったそうです。

 

移築現存の「富士見門」(両脇の「侍溜り」部分は欠落している)

移築現存の「富士見門」

 

「本丸」跡に向かう右手から「天守台」方向を見上げると目に入る重なり合う石垣群は、非常に絵になる光景です。

 

上から「天守台」「本丸」「腰曲輪」等の石垣群

 

「本丸」跡に入る「本丸虎口」跡も、平面上に何重にも折り重なる石垣によって枡形を形成していて非常に堅固に築かれていることがわかります。

 

「本丸虎口」へ

「本丸虎口」(右に折れる、奥には、「本丸」跡石垣、「天守台」石垣)

「本丸虎口」(奥には、「本丸」跡石垣、「天守台」石垣)

「本丸虎口」跡から「北の丸」跡の石垣を見る

 

「本丸虎口」を通り抜けて出た広場は「本丸」跡で、斜め右手の北隅に見えるのが「天守台」です。

 

「天守台」(南側から)

 

「天守台」は、南側に入口を持つ穴藏構造になっていて、1階部分は「コ」の字になります。高さは4m程でそんなには高くなく、野面積みのゴツゴツしい感じがします。また、南側には「付櫓」台があります。

 

「天守台」と「付櫓台」

「天守台」の穴藏

「天守台」から「本丸」跡を見下ろす

「天守台」から「本丸虎口」を見る

 

「天守台」の後ろをぐるりと廻り、手前に植わる蘇鉄の木とともに写真を撮り、それから西側沿いに植わる満開のモクレンの花を見ながら、熊野方向の眺めを堪能しました。

 

「天守台」裏側(北面)の「野面積み」

蘇鉄と「天守台」「付櫓台」

「本丸」跡に咲く満開の「モクレン」

「本丸」跡内西側にある「櫓台」

 

「本丸」跡と「堀切」を越えて繋がる「北の丸」跡は、東側は石垣で築かれ、西側は「土塁」となってます。現在は、この敷地内には「城山稲荷神社」がポツリと建つだけです。

 

「北の丸」跡の南東隅

「北の丸」跡の南面と「堀切」

「本丸」跡と「堀切」を越えて繋がる「北の丸」跡

「北の丸」跡の土塁(こんもりと盛り上がっている)

敷地内には「城山稲荷神社」

 

「本丸」跡から「二の丸」跡へ渡る際には、枡形の門跡を抜け「堀切」となった間に架けられた「土橋」を渡って行きます。「土橋」というものの、東面は石垣で積み上げられています。

 

「本丸」跡から「二の丸」跡へ渡る枡形の門跡

「本丸」跡(右側)と「二の丸」跡の間の大堀切(土橋より)

「本丸」跡(右側)と「二の丸」跡の間の土橋(「堀切」下から)

 

「土橋」跡からは見通しが良く、「三の丸」跡に建つ中学校が全体が良くわかります。

 

「三の丸御殿」跡(現 玉城中学校、「土橋」から)

 

「二の丸」跡は現在は広場のみになっていますが、その南東隅の少し盛り上がった土塁が「富士見櫓」台で、説明看板には、そこから見える「富士山」の写真が掲出されていました。

 

「二の丸」跡

「富士見櫓」台跡

 

また、その東真下には「二の丸虎口」の立派な「櫓門」の「袖石垣」が見えます。「二の丸虎口」は、「二の丸」を守る堅固な門で、下から見上げると坂道の先が右手に曲がる枡形構造となっています。

 

「二の丸虎口」櫓台の袖石垣

「二の丸虎口」(突き当りが右折れ)

「二の丸虎口」の「二の丸」跡側石垣

「二の丸虎口」の袖石垣下から「二の丸」跡を見る

 

「二の丸」跡南下の細長い曲輪から、「外堀」に出る所に、「搦手門」跡が土塁で残っています。

 

「搦手門」跡

 

「外堀」沿いに南側から東側にかけて歩いていく先に最初にスタートした「大手口」に戻ります。

 

「外堀」(南東辺り)

 

「大手口」の北側に拡がる敷地は「代官屋敷」跡だった場所で、公園とその手前には「三の丸御殿奥書院」が建っています。

 

「三の丸御殿」図(右上の黄色枠部分が移築現存部分、現地の説明板から)

 

「三の丸御殿奥書院」があった場所は現在中学校が建っているので、この場所に再移築されていますが非常に貴重な城郭建造物です。1677年建造の建物で、廃城後農家に払い下げられていましたが1991年にこの場所へ再移築されたものです。

 

移築現存の「三の丸御殿奥書院」(南面)

移築現存の「三の丸御殿奥書院」(北面)

移築現存の「三の丸御殿奥書院」(東面)

 

そこから北に延びる道を進むと北側に廻りこむ「外堀」が少し狭くはなっていますが残っています。

 

「外堀」(北側)

 

道の突き当りにある「田丸神社」境内には、二棟の移築された「蔵」が残っていて神社の物入れに使用されています。丸瓦の巴部分には、「久野家」の家紋「瓜に左三つ巴」が付いています。

 

移築された現存「蔵」2棟

移築された現存「蔵」2棟

移築現存「蔵」2棟の屋根瓦に城主「久野家」の家紋「瓜に左三つ巴」

 

以上で、「田丸城」内で見るべき所を全て見たので、曇り空でかなり暗くなってはきましたが、最後にここから20分弱の所にある「転輪寺」(度会郡明和町)へ向かいました。

 

ここの「表門」は「田丸城 城門」が、「裏門」は「松阪城 城門」が移築されていて、大昔にアナログ写真を撮ったのですが、デジタル写真の綺麗なものが無かったので足を延ばし撮影しました。日没前でしたので、辛うじてセーフでした。(「松阪城 城門」は、「松阪城」のブログ内でお届けします)

 

移築「田丸城 城門」(現 「転輪寺表門」)

移築「田丸城 城門」(現 「転輪寺表門」)

 

 

当日は以上3城で終了、「松阪駅」前でレンタカーを返却し食事を済ませてホテルへ入りました。この日は、21,000歩で約13kmでしたが、あまり疲れはなく腰の調子も快調でした。

 

次回ブログは「松阪城」をお届けします。

 

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