只今、「全国の“二重櫓”を巡る」をテーマで、「現存」と「復元・復興・模擬」の「二重櫓」の多様性(構造、形式、用途、目的、名称等)を実感しながら、北から南に向けてお届けしています。

 

本日は第16弾「大和郡山城 追手向櫓、追手東隅櫓」、 「小泉陣屋 隅櫓」の3基です。

 

①「大和郡山城 追手向櫓、追手東隅櫓(奈良県大和郡山市)、いずれも復興櫓

 

1580年に「筒井順慶」が入城、「織田信長」の後ろ盾を得て平定し「天守」を建てます。1585年には「秀吉」の弟「豊臣秀長」が100万石で入城したので、それに相応しいお城にすべく増改築を行いますが、「秀長」が没した後は養子の「秀保」、「増田長盛」が入り総構えを完成させています。

 

しかし関ケ原の戦い後は、12万石以下の譜代大名が入れ替わりに入城し、1724年に「甲府城」主であった「柳沢吉保」の息子「吉里」が藩主となってやっと城主が安定し、産業・文化振興を進めながら幕末・維新まで続きました。

 

追手向櫓」は、「毘沙門廓」の北東に置かれ、「追手門」の向かいから守護・監視するために建てられた櫓です。当櫓と「追手門」の間には「多門櫓」が構えていて、それには窓や鉄砲狭間が各々10か所も設けられていました。

 

発掘調査によって「豊臣時代」の礎石列が見つかったことから、その礎石を使用した上に、下記の「追手東隅櫓」と併せた「下見板張り」「望楼型」の外観で1987年に復興させました。

 

復興「追手向櫓」と復興「追手門」(南東方向から)

復興「追手向櫓」と復興「多聞櫓」(復興「大手門」前から南方向)

望楼型復興「追手向櫓」と復興「追手門」

復興「追手向櫓」と復興「多聞櫓」(「毘沙門廓」内の南西方向から)

 

追手東隅櫓」は、「常盤廓」の南東隅に築かれ、二重目の中には太鼓が置かれて城下に時を告げていました。

 

前記の「追手向櫓」より各二辺が約2間程小さい規模ですが、「豊臣時代」の櫓をイメージした「下見板張り」「望楼型」の外観で1984年に復興されました。北側に向かって「多門櫓」が続いています。

 

復興「追手東隅櫓」とそれに続く復興「多聞櫓」(東方向から)

復興「追手東隅櫓」(南方向から)

復興「追手東隅櫓」(南西方向から)

復興「追手東櫓」(南方向堀越しに、左の建物は「城址会館」)


 

 

 

小泉陣屋 隅櫓(奈良県大和郡山市)  復興(或いは模擬)櫓

 

当地は、「小泉家」と「筒井家」が長い間の対立後、「豊臣秀長」が大和国を治めるようになるとその家臣「羽田家」が入り、更に「片桐且元」兄弟が入城しました。

 

関ケ原の戦い後には、「片桐且元」は「茨木城」へ移り「豊臣家」を支えますが、「大坂の陣」の時に「大坂城」から出たことが評価され、弟の「貞隆」は当地に戻り立藩します。その時に、「陣屋」構えの為に整備を行い、以降幕末・維新まで統治します。

 

現在池の畔に建つ「隅櫓」ですが、小泉の地には戦国時代からの「小泉城」があり、その後も城郭の構えを持ったままで、当時からの「櫓」が有ったとも思われますが、現在建つ「隅櫓」は当時の「櫓」を反映(復興)したものかどうかという疑問があり、模擬櫓ではないかとも思います。

 

しかし現在、城跡には「片桐家」が興した「石州流茶道宗家」の居宅「高林庵」が建ち、その脇に建つ「隅櫓」を堀代わりの「薙刀池」越しに見た光景は、趣を感じる素晴らしいものがあります。

 

また、近くで櫓を見ることもでき、堀越しに眺める以上に大きく感じ、「海鼠壁」を付けた「多聞櫓」が付随する格式を持った櫓となっています。

 

模擬「隅櫓」(北西方向から)(「薙刀池」越しに見る)

模擬「隅櫓」(西方向から)(「薙刀池」越しに見る)

模擬「隅櫓」と模擬「多聞櫓」(北方向から)

模擬「隅櫓」と模擬「多聞櫓」(南方向から)

 

 

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