本日の『「明智光秀」所縁(ゆかり)のお城』は、「八上城」(兵庫県丹波篠山市)です。
「八上城」を攻める「明智光秀」のポスター
まず「八上城」の歴史、「明智光秀」との関わりについて、簡単にお話をしておきます。
「細川政元」から多紀郡の小守護代に任じられた「波多野家」が勢力を延ばす中で、「波多野家」は一時「三好長慶」によって「八上城」を失いますが、「波多野元秀・秀治」の時代に奪還します。
戦国時代に入り、その「波多野家」や氷上郡の「黒井城」主の「(荻野)赤井家」が台頭して群雄割拠しますが、その後、両家ともに時の将軍「足利義昭」と「織田信長」に服従します。
しかし、「義昭」と「信長」が不和になると、1575年に「黒井城」主の「(荻野)赤井直正」は「毛利家」に通じて「反信長」の動きをとったことから、「信長」は「明智光秀」に「赤井直政」攻めを命じます。
当初は「八上城」の「波多野秀治」も、「光秀」軍に参加して「黒井城」攻めに加わりますが、翌年早々に「秀治」は「光秀」から離反したことで、「光秀」軍は大敗北をして「京」へ逃げ帰ります。 以上の流れは、「摂津」攻め前の出来事で、一旦「丹波」攻めは中断されていました。
「摂津」攻めが一段落した1577年に「丹波攻め」を再開しますが、長期戦となりそうだったので、「光秀」はまず「亀山城」を落としてお城を改修しそこを拠点としました。「光秀」は、難敵となっていた「八上城」を包囲し続けながら、その後も「黒井城」等の丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返します。
※「亀山城」については、今後のブログでご紹介します。
1579年に入ると「亀山城」を拠点に徹底した攻めと補給路断絶を行ったことから、「八上城」で籠城戦を続けていた「秀治」は、ついに「光秀軍」に捕らわれ落城しました。
登城口に立つ「八上城跡」碑
それでは、「八上城」についてお話をしていきます。
当城は「高城山」460mの頂上に「本丸」を置き、その南東を「腰曲輪」で取り囲み、北側には「岡田丸」、そして西側に向かって「二の丸」「三の丸」「右衛門丸」が段々に延びていく「連郭式」の曲輪となっていて、それらは「主郭」を構成しています。
篠山城から八上城がある高城山の遠望
主郭部の縄張り(山頂に掲出)
「主郭」までは、二手の登城路がありますが、メインは「主膳屋敷」脇から上る山道で、途中には「鴻の巣」「下の茶屋丸」等数か所の曲輪が置かれ、西側からの敵の侵入に備えた物見場所となっています。
最高峰にある「主郭」から東側に下りた所には、蔵屋敷や水源管理する曲輪があり、更にその真下の谷底が「朝路池」という井戸があります。その周囲には、水源を守るべく、数々の堀切、大竪堀を設け番所も置かれたエリアでした。
登城には、小さな「春日神社」裏の道から入りますが、左手に拡がるのが「主膳屋敷」跡です。こちらは、「明智光秀」軍によって落城した後も、豊臣政権下の大名や家康の実子「松平康重」が「一国一城の令」で廃城になるまで、山上の主郭部からこの場所に移り「居館」を構えて政務を執っていた所です。
主膳屋敷跡
そこから坂道をどんどん上がると最初に現われるのが「鴻の巣」跡です。この郭からは西側が良く見渡せる場所で、西からの敵に備えた番所だったようです。少し階段を登ると「下の茶屋丸」跡に出ます。こちらも西からの敵に備えた陣地となる郭です。
鴻の巣跡
下の茶屋丸跡
「下の茶屋丸」跡と「右衛門丸」跡の間にある比較的なだらかな馬の背のような通路部分が「中の壇」跡です。
中の壇跡
更にここから急な階段を上って行き、行きついた所に石垣が目の前に現われます。いよいよそこが、「主郭部」跡の一番西側の「右衛門丸」跡です。
右衛門丸跡の石垣
「右衛門丸」跡は、「波多野右衛門大夫秀治」在城時の邸跡であり、そこで指揮を執っていたそうです。そして、その北東には「涼御殿」が置かれ、休息をとる場所として使用されていたのではないかと思われます。
右衛門丸跡
涼御殿跡
「右衛門丸」跡から更に登り道で左側には「腰曲輪」跡を見ながら、少し上った所には「三の丸」跡、一段高い場所には「二の丸」跡が置かれています。「三の丸」跡は、石垣を持つ広場があり、南方の谷間の防御を担った郭でもあります。
三の丸跡
「二の丸」跡の入口には門の礎石が残ります。また、発掘では瓦の破片も出土したことから、最も重要な任務を行った屋敷があったと言われています。
二の丸跡入口の礎石
「二の丸」跡から東側を見上げてモッコリと盛り上がった所が462mの「高城山」山頂で「本丸」跡になります。そこには、立派な「波多野秀治義忠碑」が立ちます。「本丸」は、望楼部分と軍兵が集合する場所からなり、四囲と砦を指揮する場所として使用されたそうです。
二の丸跡から本丸跡をのぞむ
本丸跡
本丸跡に立つ「波多野秀治義忠碑」
本丸跡の軍兵を集める場所
「本丸」跡からは、天下普請で築城された「篠山城」の天守台を始め「本丸」「二の丸」跡の石垣が良く見わたせます。
本丸跡から見下ろす「篠山城」
「本丸」跡北側には「岡田丸」という曲輪が、南側から東側にかけては「腰曲輪」の広場があります。「岡田丸」は、岡田某の居館が置かれ、北方と東方に対する防備を担ったとのことです。
岡田丸跡
岡田丸跡
本丸跡南側の腰曲輪跡
「本丸」跡北側から東側にかけての側面には、石垣を確認することができました。
本丸跡北側から東側に残る石垣
「本丸」跡東側の急な坂を下りた所から二手に分かれ、片や「南曲輪群」「東尾根曲輪群」を通って前述した「藤木坂口」へ下りるルートがあります。もう一方へは「蔵屋敷」跡が通路に沿ってあり、更に下った所には「東池番所」跡があります。その南西真下辺りに「朝路(あさじ)池」があり、山城の生命線である水の確保ができる重要なエリアであり、「番所」もそれを守備する役目を担っていました。
蔵屋敷跡
東池番所跡
また、そのエリアへの侵入者を防備する為の色々な仕掛けが見られ、「堀切」や谷の奥には「大竪堀」が設けられています。
堀切跡
奥に大竪堀跡
「朝路池」は、飲料用水用の池で、周囲を高い山で囲われた底地で非常に神秘的な場所、というよりも何か薄気味悪い位置です。「朝路池」の謂れも、落城の際に「朝路姫」が入水自殺したとか、また財宝を埋めたとの伝説があるいわくつきの池です。
朝路池
この池の脇には「池東下の番所」跡があり、「堀切」等から突撃してくる敵を掃射した場所だったようです。
池東下の番所跡
「高城山」麓に走る「播磨街道」沿いは旧「八上城下町」でしたが、現在は旧家が所々見られるものの特に遺構も雰囲気もありません。しかし、旧「山陰街道」と旧「播磨街道」との分岐点辺りに「重兵衛茶屋」という江戸時代に参勤交代の大名や旅人の休憩所になった建造物が残っていて、丹波篠山市の指定文化財になっています。
重兵衛茶屋
また、「篠山城」下の「青山歴史村」敷地内には、元「八上城」城門だった門が「八上城下」の屋敷に移築され、それが「青山歴史村」へ再移築されて現存しています。
元「八上城」城門(現 篠山城下の「青山歴史村」の敷地内)
元「八上城」城門(現 篠山城下の「青山歴史村」の敷地内)
次回のブログでは、丹波攻略の為には抑えなければならなかった「赤井家」の「黒井城」をお届けします。
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