本日の『「明智光秀」所縁(ゆかり)のお城』は、「岐阜城」(岐阜県岐阜市)です。

 

朝倉方に亡命していた「一条院覚慶(かくけい)」から還俗した「足利義昭」は、「京」へ入り兄「義輝」の後を継いで将軍の地位に付きたいという思いがありました。

 

一方、諸国の戦国大名よりいち早く上洛を果たしたいという「織田信長」の思いが有ったことから、室町幕府方は「信長」の力を利用して「義昭」を将軍にさせようとし、当時幕府方の「奉公衆」であった「細川藤孝」等とともに「明智光秀」も動き、1568年に「義昭」と「信長」の二人を会談させようとしていた史実があります。

 

このような動きの中で、「信長」が稲葉山城を「斎藤龍興」から奪取して名を替えたのが「岐阜城」で、幕府方「奉公衆」だった「光秀」は、「信長」上洛の段取りの打合せの為に「岐阜城」に登城していたと思われます。

 

霧に霞む「岐阜城」復興天守

 

それでは、「岐阜(稲葉山城)城」の歴史と、城主について触れておきたいと思います。

 

「織田信長」が、「岐阜城(当時は、稲葉山城)」を天下統一の偉業に踏み出すお城としたのが1560年代後半ですが、それに至るまでには様々な「稲葉山城」奪取の攻防がありました。

 

「稲葉山(現在は金華山)」に砦が築かれたのが13世紀初頭で、その後15世紀中頃に美濃の守護代であった「斎藤家」が城を修復して居城としますが、その家臣であった「長井家」が城を奪います。その「長井家」の息子であったのが「斎藤道三」で1533年に城主になります。

 

「斎藤道三」絵(隅櫓内資料館に掲出分)

 

「斎藤道三」の娘(濃姫)を妻として娶ったのが「織田信長」でしたが、「道三」は嫡男の「義龍」に殺害されたことで、「岳父」を殺害された「信長」は「岐阜城(稲葉山城)」を攻めます。「義龍」の嫡男「龍興」が城主となり「信長」の攻撃を交わしますが、城内の謀反によって、上述したように当城が「信長」のものとなりました。

 

「斎藤義龍」絵(隅櫓内資料館に掲出分)

 

それでは、「岐阜城」について紹介をしていきましょう。

「岐阜城」は、標高329mの「稲葉山(金華山)」山上の「山城」と、麓の「城館」で構成されていて、特に「織田信長」時代には、麓の拡充を行いました。

 

まず「岐阜城」山上の「山城」の曲輪についてザッと簡単に説明しておきます。「曲輪」は、「稲葉山(現在、金華山)」の尾根を利用した「連郭式」のお城で、「天守」に向かって徐々に登っていきます。

 

岐阜城山頂の曲輪図

岐阜城山頂の曲輪(伊奈波神社蔵の「稲葉城跡之図」、解説板に掲出)

岐阜城山頂の曲輪(伊奈波神社蔵の「稲葉城跡之図」、解説板に掲出)

 

現在「岐阜城」天守が聳える「金華山」山頂へは登山道がありますが、ロープウエイで山頂駅まで行き、そこから「天守」までは徒歩10分位です。

 

山上までは「ロープウエイ」が楽です

 

「ロープウエイ」山上駅を降りてすぐの所に「天下第一の門(冠木門)」があります。これは、当時の遺構跡に建てられたものではなく、後世、「織田信長」が「岐阜城」を皮切りに天下統一の偉業を目指した事を湛えて建てた門らしいです。

 

天下第一の門(模擬の冠木門) 

 

まず最初に「一の門」が構えていて、その左上にあった「太鼓櫓」が「一の門」を監視していたようです。現在伝「一の門」前には巨石がころがり、ゴツゴツした岩の「太鼓櫓」台上にはレストランが建っています。(※「伝」とは、伝説、言い伝え)

 

伝「一の門」跡

「太鼓櫓」台跡(現在上にレストランが建つ)

 

伝「一の門」跡を通り抜けた細長い敷地は「馬場」跡です。そこから少し上がった所に、尾根をV字カットした「堀切」(切通しとも)を設え、簡単に「天守」まで行かせない仕掛けが設けられています。

 

馬場跡

堀切(切通し)跡

 

「馬場」跡を通り抜けると伝「二の門」が構えてその中が伝「下台所」の敷地となります。現在伝「二の門」跡には「冠木門」が入口として構えています。

伝「下台所」は、宣教師「ルイス・フロイス」の著書によると、若い貴人数100人程が生活をしていた座敷だそうで、「信長」支配下の領主の子供たちを人質として住まわせていた場所のようです。

 

伝「二の門」跡

伝「下台所」跡

 

階段を上がり平地になっている「台所」を経ると、真正面に「天守」が現われ攻め上がってきた敵に対しては脅威を与える造りとなっています。

 

復興天守(少し古い写真ですが、天守の形は変わりません)

 

「台所」跡から「天守台」までを繋ぐ細長い「土橋」風の土台両壁面には「野面積み」の「高石垣」が積まれています。この「高石垣」は東側下にある道から見上げることもでき、その脇には「井戸」が残ります。

 

台所跡と天守台を結ぶ土橋側面の高石垣 

本丸井戸

 

現在建っている模擬天守の「天守台」の石垣は、「野面積み」で隅石の積上げがありますが、「算木積み」が未発達の時代の様子がよくわかります。

 

2020年1月に、発掘調査で現在の天守台西側に「織田信長」時代の「天守台」が見つかったとのニュースがありました。長さ180㎝、高さ70㎝ですので僅かな発見です。 1579年建築の「安土城」の天守が「織田信長」が造った最初の「天守」と言われていましたが、「岐阜城」の方にすでに「天守」を建てていたようです。

 

天守下の石垣(算木積みが未発達)

「天守台」の石垣と「復興天守」を見上げる

 

「天守」に関してですが、現在のモノは望楼型の復興「天守」で1956年(昭和31年)に建てられたものです。しかし驚くことに、これは2代目の「天守」で、その46年前の1910年(明治43年)には、日本最古の復興「天守」として建てられたものがありました。それは残念なことに、1943年(昭和18年)に失火で焼失してしまいました。

 

明治43年築の日本初の復興天守(大正時代に写された写真、資料館に掲出)

 

因みに、現在建っている日本最古の復興・模擬「天守」は、1928年(昭和3年)に築城された「洲本城」です。その18年も前に「岐阜城」が復興建築されていることを見れば、当時日本の中では、戦国時代を治め天下統一を果たそうとした「織田信長」という人物を大いにリスペクトしたい、その偉大な人物が建てた「岐阜城」は是非とも復興させたいという機運があったのではないかと思います。

 

更に「天守」についてのお話ですが、「織田信長」時代の「天守」であるのか、その後1584年に入城した「池田輝政」時代の「天守」であるのかはわかりませんが、当時の「岐阜城」の「天守」は、現在の岐阜駅南側に拡がる「加納城」の天守代用の「御三階櫓」として、江戸時代初めに「徳川家康」によって行われた「天下普請」の築城の際に移築されました。

 

その時の古文書や「加納城」の「御三階櫓」の立面絵図が残っていたことから、それを参考にして再築されたのが、現在の「岐阜城」の復興「天守」だそうです。この「加納城」の「御三階櫓」の立面絵図や明治時代に建てられた岐阜城復興「天守」の写真は、「隅櫓」風の資料館で見ることができます。

 

岐阜城天守を奥平信昌が加納城へ移築した際に記された絵図(資料館内に掲出)

 

復興「天守」は、三層四階で最上階からは、濃尾平野を一望できます。(三回目の登城時には、ガス(霧)に覆われ、時には風に押し流されて下界を眺めることができましたが、すぐにモヤがかかるという残念な結果となりました)

 

「復興天守」

「復興天守」最上階の内部

天守から下界を見る、一瞬ガスが途切れた

 

東側に少し下った所には、上述の「隅櫓」風の資料館が建ち、その中で最も興味を引いたのは、前述の明治時代に建てられた復興「天守」の写真でした。

 

隅櫓風の資料館

 

山上を後にして、山麓の「信長居館」跡に向かいます。

この山麓の「居館」は、西側山麓の槻谷(けやきだに)入口に建てられ、この曲輪を「千畳敷」と呼ばれます。「信長」時代には、壮麗を極めた四階の「楼閣」があったことを、宣教師であった「ルイス・フロイス」が1569年に訪問した時の記録として「日本史」に記載があります。

 

「信長居館」の宮殿と奥座敷絵図(現地に掲出)

ロープウエイから見下ろす山麓の「信長居館」跡

岐阜城の絵図(江戸時代に描かれたモノ)

 

1984年から発掘調査が行われ、2012年(平成23年)の居館跡発掘調査では、かなりのことまでが発掘調査によって分ってきたようで、当時の「信長居館」をコンピューターグラフィック(CG)によって再現されています。

 

前述の宣教師「ルイス・フロイス」の文献「日本史」には、「驚くべき大きさの石垣、1階に20室もの部屋があり、内部は純金で縁どって豪華絢爛であり、前廊の外には四つ五つの庭がある」等が記載されていました。

 

発掘調査によって、「千畳敷」と言われる平坦な敷地には、「四階建ての宮殿(山麓御殿)」を始め「前廊下と歩廊下が併設した大広間」、「劇場風の建物」、「内庭」などが配備され、金箔が貼られ瓦を持つ建物も存在していたことが証明できたようです。

 

居館跡発掘調査の絵図

 

「信長居館」は、入口部分にも石垣を積み、道をクランクさせ「千畳敷」に導きます。

 

信長居館跡の入口に建つ冠木門

信長居館跡 (稲葉山城時代の遺構も見られる、斎藤氏時代の遺構)

信長居館跡 (稲葉山城時代の遺構も見られる、斎藤氏時代の遺構)

信長居館跡 (千畳敷の入口) 

信長居館跡 (初期の石垣、入隅と出隅になり横矢を導入)

信長居館の中心的建物が有った付近 (千畳敷跡) 

信長居館跡 (千畳敷跡内の庭園跡)

金箔飾瓦が付く建物があった場所から庭園方向

 

更に、「千畳敷」奥の山裾には「千畳敷」から廊下を伝って「奥座敷」を設けたり、滝を造って庭園にしています。

 

信長居館(奥座敷跡方向)

信長居館の水路、橋、庭園跡

 

「織田信長」が、後に建てる「安土城」は、この「信長居館」で色々と試されて造られた建造物や庭園、石垣が導入されたものと思われます。

「岐阜城」は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも、「織田信長」と「明智光秀」との共演の舞台となることから、「戦国武将ゆかりの地・・・」の旗竿が掲げられていましたが、間もなく終焉を迎えます。

 

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の広報用旗竿

JR岐阜駅前に立つ「織田信長」像 

 

次回のブログは、「明智光秀」の第二ステージである「織田信長」の家臣となって活躍し、お城も与えられて統治を開始するとともに、「信長」の全国統一に向けた戦闘をこなしていく場面となります。その最初に、与えられた「坂本城」をお届けします。

 

 

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