本日の『「明智光秀」所縁(ゆかり)のお城』は、「一乗谷城」(福井県福井市)です。
昨年(2020年)の新春NHK特別番組、『あなたも絶対行きたくなる!日本「最強の城」スペシャル』では、出演者「高橋英樹さん」「春風亭昇太さん」などのお城好きが選ぶんだお城が「一乗谷城」でした。
現在、発掘調査を元に450年前の姿が蘇り、中世当時の城下町の姿を体験できます。そして、南北に伸びる谷全体が一つのお城となっていると同時に、詰めの城である山城も備えていたことが評価されました。
中世城下町の復元街並み
「明智光秀」は、「明智城」の落城から身を寄せたのがこの「一乗谷城」下であり、初めての仕官先である「朝倉義景」のもとで才能を発揮したと言われています。
城下から山一つ越えた所に屋敷が与えられ、娘「玉」(後のガラシャ」はそこで産まれました。「麒麟がくる」では、屋敷といっても貧相な住居で周囲の子供たちに字を教えたり病人に薬の施しをしたりして生活をしていた映像だったと思います。
そして、当時の室町幕府13代将軍「足利義輝」の弟、当時は「一条院覚慶(かくけい)」という還俗した僧で、後の15代将軍「足利義秋(義昭)」がこの地に亡命してきますが、彼に随身してきた「長岡(細川)藤孝」との出会いもありました。
「一乗谷城朝倉氏館」は、「朝倉義景」の居館であり、「お城」でありながら「京」文化をふんだんに採り入れたと言われています。
「一乗谷城朝倉氏館」跡の遠景
それでは、「一乗谷城」の城主であった「朝倉家」について少し触れたいと思います。「朝倉家」は、源平以前からの天皇家から分かれた家系の豪族でした。1471年には7代目の「敏景」が越前守護職となって一乗谷に本拠を移しました。この一乗谷の中心となったのが当主「朝倉家」の居館でしたが、その背後には「一乗城」という詰城も築かれました。
応仁の乱が始まると、「京」を逃れた公卿や高僧、文化人が多く滞在して「北ノ京」とも呼ばれる程になり越前の中心地となりました。9代「貞景」の時には、10代足利将軍「義稙(よしたね)」が朝倉家を頼って一乗谷に流れてきて、「朝倉義貞」の協力を得て将軍職に復職しています。
その後上述のように、還俗した僧「一条院覚慶(かくけい)」(後の「足利義秋(義昭)」)が亡命してきましたが、11代「朝倉義景」は「義秋(義昭)」の上洛を支える行動を起こさなかったことから、業を煮やした「義秋(義昭)」は「信長」に頼ることになります。
その結果1568年には、「信長」が「義昭」を奉じて上洛することになる一方で、5年後の1573年には「信長」配下の「柴田勝家」を先鋒とする「信長軍」によって火をかけられて「一乗谷城」は焼失してしまいました。そして「朝倉義景」は、「越前大野」に逃げ込みますが、そこで自刃して「朝倉家」は滅びます。
「越前大野城下」にある「朝倉義景墓」
さて「一乗谷城」ですが、「朝倉家」やその家臣達が居住していた「朝倉氏館」と「城下町」、そして詰城である中世山城であった「一乗谷城」で構成されています。
今回は、その「朝倉氏館」を中心とした城下町を写真で紹介していきたいと思います。(※私自身は、詰め城の「一乗城」には訪城していません)
「一乗谷朝倉氏館」遺跡は、全国でも有数な規模を誇る戦国時代の城下町遺跡と言われています。
「一乗谷城朝倉氏館」地図
城下町の入口である「下城戸(しもきど)」跡から、一番南側の「上城戸(かみきど)」跡まで約2㎞弱あり、一乗谷川に沿った細長い谷エリアに、武家屋敷やその庭園、町家、寺院が所狭しと当時は並んでいました。
これが、発掘調査によって顕わとなり、現在では「平面復元地区」と「朝倉館跡」、「諏訪館跡庭園」、「立体復元地区」で復元建造物や平面表示で当時の概略がわかるようになっています。
JR福井駅から出ているJR「越美(えつみ)北線」の「一乗谷駅」を下車して南に向かって進みますと、まず現われるのが「下城戸」跡の巨石で、そこは枡形になっています。城下町の北面を守る防御施設で土塁と巨石を組み合わせています。現在は、2~3段積みの巨石とその手前に堀の一部があります。
「下城戸(しもきど)」前の堀の一部
「下城戸」跡 (桝形の城戸口で巨石使用)
「下城戸」跡の巨石
「下城戸」の城戸内側は土塁
城戸内に入りますと、城下町の「平面復元地区」が拡がります。そこには、平面表示が施されてあり、発掘遺跡から想定される職業等の表示もされています。また、各区画内には「井戸」跡も見られ、インフラ整備も進んでいたようです。
「平面復元地区」(各区画内には井戸が整備されている)
「平面復元地区」内の復元した敷地
「平面復元地区」内の復元した敷地
そこから、もう少し進んだ所が「雲正寺(うんしょうじ)平面復元地区」がありますが、こちらは奥深く入り込んだ谷に延びて、多くの家が建て込んでいたようです。お墓や五輪塔が出てきたので「雲正寺院跡」ということらしいです。また、この谷の入口付近の高台には「月見櫓」跡があります。
「平面復元地区」 (雲正寺地区の平面図)
「平面復元地区」 (雲正寺地区)
月見櫓跡
発掘調査で戦国時代の城下町の具体例が判明したことから、「復元街並み」がかなりのスペースで再現されています。
復元街並(諏訪館庭園跡からのぞむ)
土塀が曲線を描いて続き、藍染めをしていた紺屋等の「町家」が数軒再現され内部も見学できます。更に街並みを歩きますと「武家屋敷の武家門」があり、門を入ると板蔵、納屋、井戸、厠までもが、発掘調査に基づいた配置で再現され、復元武家屋敷主殿や台所の内部にはその当時の雰囲気を出した人形迄置かれ生活感を演出しています。この中世の復元城下町は、ドラマや映画のロケでも良く使用されているようです。
復元の町家と街並み
復元の町家内部(井戸がある)
復元「武家屋敷門」
復元「武家屋敷敷地」内の板蔵、納屋、井戸
復元「武家屋敷敷地」内の厠
復元「武家屋敷敷地」内の主殿
「武家屋敷」主殿の内部
復元街並みの東側にあるのが、「朝倉氏館」跡地で「一乗山」を背にして三方を堀と土塁で巡らせています。この正面に建つ「唐破風」が特徴の「唐門」は、「朝倉氏館」を紹介する写真には必ず掲載されている門です。ただこの「唐門」は、「朝倉氏館」当時の門ではなくて、「松雲院(しょううんいん)」の門が江戸時代に移築されたそうです。
「朝倉氏館唐門」正面
「朝倉氏館唐門」裏面
「朝倉氏館唐門」
「朝倉氏館」の土塁と堀
「朝倉氏館」の土塁と堀
敷地内には、「常御殿」等の建物の礎石群が露出展示され、庭園跡やその脇には「朝倉義景の墓」も立ちます。ただ、「義景」の墓は、「越前大野城」下にもあり、そちらの方は自刃した近くにある本当の墓のようで立派です(前掲)。
「朝倉氏館常御殿」の平面図
「朝倉氏館」の敷地内
「朝倉氏館庭園」跡
「朝倉義景」の墓
「朝倉氏館」から少し山肌に沿った所には、「湯殿跡庭園」「中の御殿跡」「諏訪館跡庭園」が南方向に並んでいます。特に、「諏訪館跡庭園」は、「義景」の妻「小少将(こしょうじょう)」の館の庭園で、上下ニ段構成で、上段の庭園は下段への水を誘導する機能を兼ねて優雅な曲水を描いています。また、石も古びた感じが残っています。「中の御殿」跡は、「義景」の母「光徳院」の屋敷跡と言われています。
「諏訪館跡庭園」跡
「中の御殿」跡
そこから一乗谷川に沿って南下した所に、南側からの城門であった「上城戸(かみきど)」の盛土が見えます。遠くから見ると土塁ですが、石段があり上に上がれるようになっていて下部は石積みとなっています。
「上城戸」の土塁(城戸内側から)
「上城戸」の石段
「上城戸」端の石垣
「一乗谷城」は、「明智光秀」のお城ではないですが、「朝倉義景」に仕官したことによって、この文化度の高いお城近くに居住し、城内でも仕事をしたと思われますので、自然と「京」の知識・文化・仕来り(しきたり)等がここのお城で身に着き、その後の仕事の拡がりに役だったのではないかと思います。
次回ブログでは、「光秀」が、「信長」と「義昭」との出会い、会見をさせる段取りを行うために、登城したかもしれない「岐阜城」をお届けしたいと思います。
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