『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく、その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。

 

前回のブログで記載しましたが、「旧幕府軍」は大挙して、最後の決戦を「大坂城」で交えようと「大坂城」を目指して引き揚げました。

 

「浪華城全図」(19世紀初めの「大坂城」全体の姿を描いたモノですが当時もほぼこのような姿では、、ミライザ内写真展示)

 

しかし「大坂城」に駐留していた総大将「徳川慶喜」は既に、「松平容保」「松平定敬」「板倉勝静(かつきよ)」等の重臣を引き連れて「大阪湾」上に待機させていた軍艦船で江戸へ逃げ帰った後でした。

 

「徳川慶喜」の写真(ミライザ内写真展示)

 

首脳陣が誰もいないもぬけの殻の「大坂城」で、「旧幕府軍」の面々は戦意喪失となって勝敗が決定的となりました。

 

それでも、城内に残った一部の「旧幕府軍」は、「薩摩軍」と戦いますが、お城に火をかけられ「大坂城」の各所で炎上して、「本丸御殿」、本丸に建っていた11基の「三重櫓」、「桜門」「山里門」「姫門」等のすべての本丸の門、二の丸に建っていた「巽櫓」「艮櫓」「太鼓櫓」そして南堀沿いに建っていた「四番櫓」「五番櫓」「七番櫓」等の主だった城郭建造物の殆どが焼失してしまいます。

 

「浪華城全図」(19世紀初めの「大坂城本丸」の姿、現在発掘調査中の説明資料から)

「大坂城絵図」(1793年に描かれた絵図、現在発掘調査中の説明資料から)

「徳川幕府再築の大坂城」(当初の徳川「大坂城」、ミライザ内写真展示)

 

「慶喜」達が「大坂城」を脱出したのが1月6日、「大坂城」が炎上したのが1月9日、「新政府軍」が翌日には「大坂城」を接収し、大坂市中に進駐して「薩摩藩」が「南御堂」を、「征東将軍仁和寺宮」が「北御堂」を本営としました。現在の大阪のど真ん中「御堂筋」を押さえたのでした。

 

左に「鉄砲方預多聞」、「桜門」の高麗門と櫓門(ミライザ内写真展示)

「大番頭預<東南隅櫓>櫓」(ミライザ内写真展示)

「馬印櫓」「月見櫓」「糒(ほしい)櫓」の各櫓(手前から、ミライザ内写真展示)

「具足方預<馬印>櫓」(ミライザ内写真展示)

「鉄砲方預<月見>櫓」(ミライザ内写真展示)

「蔵方預<糒>櫓」(ミライザ内写真展示)

「鉄砲方預<北の手>櫓」「姫門」「具足方預櫓」(ミライザ内写真展示)

「弓方預<御成門之内>櫓」と右に「弓方預多聞」(ミライザ内写真展示 )

「具足方預片菱<数寄屋前櫓>櫓」、下には「石火矢蔵」(ミライザ内写真展示 )

「弓方預<西南隅>櫓」、右に「鉄砲方預多聞」が続く(ミライザ内写真展示)

「鉄砲方預<西の一番>櫓」(ミライザ内写真展示 )

上記掲載の写真が掲出されている「ミライザ」(前大阪市立博物館、旧陸軍第四師団司令部庁舎)

 

一方「大坂城」を逃げ出した「慶喜」は、軍艦船で江戸へ逃げ帰り、徳川将軍家の別邸である「浜御殿」に上陸しました。

 

その後、火災を免れていた「二番櫓」「三番櫓」「坤櫓」「伏見櫓」「京橋門」「青屋門」の城郭建造物は、太平洋戦争時の空襲によって焼失或いは大きなダメージを受けてしまいました。

 

焼失した「西の丸」と「坤櫓」(ミライザ内写真展示 )

「千貫櫓」「大手門」(現存)、「一番櫓」(現存)、焼失した「二番櫓」「三番櫓」、「六番櫓」(現存)が見える(ミライザ内写真展示 )

焼失した「伏見櫓」(ミライザ内写真展示 )

「和歌山城二の丸御殿」から「本丸」内に移築されていた「紀州御殿」は戦後焼失、復興「天守」(ミライザ内写真展示)

 

しかしそれでも、現在は10余りの城郭建造物が残り重要文化財に指定されていることは、先日の「大坂城・二条城」でお届けして、写真掲載もしましたので、今回は割愛します。

 

「大坂城」の現存城郭建造物はこちらからご覧ください

 

 

いよいよこのシリーズは、次回のブログで「慶喜」が上陸した「浜御殿」で最終となります。

 

 

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