『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく、その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。

  

前回のブログでは、「鳥羽・伏見の戦い」の現場となった「伏見奉行所」が「薩摩軍」の砲弾で燃えてしまったことを紹介しました。

 

そして、劣勢となった旧「幕府軍」は、態勢を整える為に一旦「淀城」(京都府京都市伏見区)に引き上げましたが、旧「幕府軍」を迎え入れる為に「淀城」の門は開かれませんでした。

 

西側から見る天守台(穴蔵への入口が開く、手前は西側の曲輪で櫓等が置かれた)

 

仕方なく、城内に入れない旧「幕府軍」は、更に南下して、「橋本陣屋」や近くにある淀川沿いの「樟葉(橋本)台場」に逃げ込みます。

 

さて、この「淀城」の歴史と城主について触れておきます。

 

「幕府軍」が逃げ込んだ「淀城」とは別に、500m北東方向の場所に「淀古城」がありました。ここは、15世紀後半に「畠山家」の山城守護所が置かれ、その後は「細川家」の支配下になって「三好家」「松永久秀」が入城しましたが「織田信長」によって落城します。

 

「明智光秀」が「本能寺の変」後に「豊臣秀吉」との戦いに備えるも破れて敗走、その後「秀吉」のお城となり、側室「茶々」が「鶴松」出産の為に入城して「淀殿」と呼ばれるようになりました。

 

新しい「淀城」は、「伏見城」を廃城した替りに築城され「徳川家康」の甥である「松平(久松)定綱」が入城します。1623年に入城した「永井尚政」が城下町等の拡張を行いますが、その後「石川家」「松平(戸田)家」「松平(大給)家」の譜代大名がショートリリーフで繋ぎ1723年に「稲葉家」が10万2000石で入封し、以降幕末・維新まで統治します。

 

「稲葉家」の歴代当主は、「奏者番」「寺社奉行」「大坂城代」「京都所司代」の重職を務め、最後の「正邦」は「老中」に就いて幕末の幕政を執り行っていました。

 

しかし、前述した「鳥羽・伏見の戦い」後に逃げ込もうとした旧「幕府軍」に対して閉門する判断は、「正邦」の意に反して城代が決定を下し、それが旧「幕府軍」の敗因の一つにもなりました。

 

前置きが少し長くなりましたが、まず新しい「淀城」についてお届けします。

 

城内掲出の「稲葉家時代の淀城下」

 

「淀城」の立地と「縄張り」ですが、傍には「宇治川」「桂川」「木津川」の三川が合流して「淀川」となる地点ですので、水は豊富にありそれを活用した造りになっています。

 

城内の城郭建造物は、「天守」の他に、最大「三重櫓」4基、「二重櫓」5基、「平櫓」と「多聞櫓」25基、櫓門4棟の他にも冠木門や水門、舟入門が建ち、「二条城」の控えのお城として見事な様相を備えていました。

 

北側の「桂川」を背に、「本丸」と「二の丸」が北・南で繋がり、その周囲を「内堀」が囲み「三の丸」が東側から、「西の丸」が西側から「コ」の字の上向きで構えていました。更に「中堀」と「東曲輪」、南側に「内高輪」の曲輪を配備しました。

 

「本丸」には、1625年の「徳川秀忠」「徳川家光」の視察に備え宿泊用として用意された「本丸御殿」と、南東隅に大きな天守台が築かれ、そこに五重五階「天守」と四隅に「二重袖櫓」が建っていましたが落雷により焼失し、それ以降は再築の計画があったものの建ちませんでした。

 

「天守」についてですが、当初は「伏見城」天守を移築する予定で天守台が造られていましたが、「二条城」が「後水尾天皇」の行幸に備えて急遽「伏見城」天守を「二条城」に移築しました。そして「二条城」に建っていた小ぶりの「天守」が「淀城」の天守台に移築されたことから大きな天守台の四隅が空き、そこに「二重袖櫓」が建てられたという経緯があります。

 

「天守台」西面

「天守台」上(左側が「穴蔵」)

「天守台」から「穴蔵」入口を見る

「二重袖櫓」が建っていた「天守台」隅部

 

因みに「二条城」から移築された「天守」ですが、一説には「徳川家康」時代に築いた「大和郡山城」の「天守」が移築されたモノとの説もあります。

 

「天守」の資料や指図が残っていてそれによると、重箱型の1・2階の上に三重の櫓を乗せた「望楼型天守」で、各屋根に「大入母屋破風」「大千鳥破風」「向唐破風」「軒唐破風」「切妻破風」と変化に富んだ破風で飾られ、華麗な姿に仕上げていたようです。

 

「二重袖櫓」は、「姫路城」から移築されたとも言われ「姫路櫓」と呼ばれています。石垣から出張った形で土塀と繋がっていました。また「天守台」の一段下の「付段」には、平櫓の「玉櫓」「井戸櫓」が外部から守りを固めていました。

 

「天守台」と「付段」の石垣(西側下から)

「天守台」北面

左から、「淀城城址碑」「淀小橋旧跡碑」「唐人雁木旧跡碑」が並ぶ(「天守台付段」北側石垣前) 

 

現在の「本丸」は、京阪電車「淀駅」から少し離れた南西にありますが、以前高架駅でないときには駅のすぐ裏側に堀があり「天守台」が併設していました。以前の写真を掲載しておきます。

 

「天守台」と「内堀」(「本丸」跡の「多聞櫓」跡から)

「天守台」と「内堀」(「本丸」跡の「多聞櫓」跡から、以前の写真で「京阪電車淀駅」の裏側だった)

「天守台」南面と「本丸」跡(以前、京阪電車「淀駅」から写した写真)

 

「打込接」で築かれた「天守台」は、本丸周囲の「多聞櫓」跡からも上がれるようになっていて櫓台の大きさが実感でき、上から「穴蔵」も覗き込むことができます。夏シーズンでしたので草が生えていて全貌が解りずらいです。

 

「穴蔵」と「天守台」の間の階段

「天守台」の上と「穴蔵」(奥には「穴蔵」の入口)

 

「付段」は北側から西側にかけて「天守台」を取り囲んでいて、「井戸櫓」跡には、井戸の石蓋が横たわっていました。

 

「天守台」下の「付段」入口(上に見えるのが「天守台」)

「天守台」と西側「付段」

「天守台」と北側「付段」

「天守台」の北側「付段」の「井戸櫓」跡

「天守台」から「本丸」跡を見下ろす

 

「天守台」の南側から西側にかけて、そして「本丸」跡の南側から西側にかけて「内堀」が残っていています。

 

「本丸」を取り巻く「多聞櫓」台(西方向)

「天守台」から「南堀」をのぞむ(西方向)

 

次回ブログでは、「淀城」の後編として「本丸」跡以降、「淀古城」までお届けいたします。

 

 

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