『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。

 

前回のブログでは、「津和野藩」が「長州軍」の藩内通行を黙認した事を記載しましたが、「浜田藩」は、防波堤となると思っていた「津和野藩」が無抵抗であったことから、浜田、津和野両藩の境界付近である益田の「石州口」で、「大村益次郎」率いる「長州軍」と「幕府軍(浜田藩と福山藩)」両軍の火ぶたが切られ戦場となります。

 

しかし圧倒的な兵器威力の差で、「幕府軍」は圧倒されて敗戦します。敗戦が濃厚となった時点で、浜田藩主「松平武聰(たけあきら)」は「浜田城」(島根県を浜田市)を焼いて美作へ逃避しました。今回は、この「浜田城」についてお届けいたします。

 

「浜田城」復元CG(城内に掲出分)

 

「浜田城」の歴史は、この地が「毛利家」の支配下にありましたが、関ヶ原の戦い後は幕府直轄地になりました。

 

その後浜田に外様大名の「古田重治」が入封して外様大名ならではの幕府に対する気の使いようで「浜田城」を築城しますが、二代藩主は嗣子なく断絶となり、譜代大名「松平(松井)家」が入城します。

 

以降は「毛利家」への抑えや、「石見銀山」の管理を担うべく、歴代「本多家」「松平(越智)家」という「徳川家」に近い家が入封しました。特に幕末まで藩主だった「越智(松平)家」は、親藩の一つで、6代将軍「徳川家宣」の弟「清武」を家祖とする格式ある家でした。

 

「浜田城」の輪張りは、67mの丘陵地を使用した平山城で、北側は「日本海」、南側から西側にかけては日本海に注ぎこむ「浜田川」が天然の要害となり、東側は「内堀」によって囲われています。

 

「浜田城図」(明治4年作、右下が北)

 

また曲輪は、山頂の「本丸」から「二の丸」「三の丸」と南東方向にかけて繋がります。

 

「本丸」は、天守代用の「三重櫓」と平櫓の「玉蔵」「六間長屋」が建っていました。天守代用「三重櫓」は三重三階の望楼型で一階が下見板張りで二階・三階は総塗籠め、高さが低く一階の平面が広かったのでずんぐりむっくりした形であったようです。また、石垣の上でなくて敷地にじかに建っていました。

 

「本丸」跡(南方向)

「三階櫓」跡

「本丸長屋」跡(「一ノ門」跡の右側)

「本丸」跡から「日本海」方向

「外ノ浦の湊」(物流の拠点、「本丸」跡から)

 

「本丸」の段下には「二丸」を設け「一の門」で繋がります。更に「二丸」は西側に設けられた「出丸」に繋がり、南側に設けられた「三丸」とは「二の門」によって出入りができました。「二の門」は「櫓門」形式で内枡形虎口となっていて、現在でもその枡形石垣を見ることができます。

 

「本丸一の門」跡

「出丸」跡

「二の門」跡の枡形(「二丸」跡から見下ろす)

「二の門」跡の枡形(「三丸」跡から見上げる)

 

「三丸」跡南東側に階段状の石垣が積み上げられ、その下に広がる「二の丸」跡には、「焔硝蔵」や「時打番所」や、「三の丸」との出入口となる櫓門の「中の門」が置かれました。

 

「三丸」の石垣

「三丸」跡までの石段

 

現在「二の丸」の大半の敷地を使用して、「護国神社」が建っています。

 

「二の丸」跡付近に立つ「浜田城跡」碑

「二の丸」跡に建つ「護国神社」

 

また、現在立派な「中の門」跡の櫓台が残りますが、民家に接した状態で佇んでいて、その奥は林の中となります。

 

「中の門」跡の櫓台

「中の門」跡の櫓台

「中の門」跡前の石垣

 

「三の丸」は、「大手門」から「中の門」の間の敷地で、「御殿」「蔵」「役所」「番所」等が置かれ、「二の丸」東側を下りた場所には「裏門」が築かれていました。

 

「浜田川」沿いには、回遊式庭園や「船番所」が設けられていました。また、火災への備えとして退避用の数か所の「茶屋」や「南御殿」も設けたりしました。

 

「大手門」外側を守る「内堀」は、現在埋め立てられ道路となり、「大手門」跡も「跡碑」が建つのみです。そして道路を進んだ左手少し入った民家が並ぶところには「裏門」跡の石垣を見ることができます。また、「南御殿」跡には、現在カトリック教会が建ちます。

 

「内堀」跡の道路

「大手門」跡碑

「裏門」跡石垣

「裏門」跡石垣

「南御殿」跡(現 カトリック教会)

 

明治3年に「藩庁」が「県庁」になった時に、現在の郵便局の場所に藩邸を移築して約7年間使用しました。

 

「城山」と「御殿」跡

「浜田県庁」跡(明治3~9年、「津和野藩邸」を移築して使用)

 

その「県庁」の門は、元「津和野城」の「城門」を移築したモノで明治3年~昭和41年迄使用され、その後は、「浜田城」の「二の丸」跡から「三丸」跡への上り口に再移築され「旧浜田県庁門」として紹介されています。この門の特徴としては、屋根が曲線を描く「剥くり(むくり)屋根」になっています。

 

「旧浜田県庁門」 (元「津和野城門」)

「旧浜田県庁門」 (元「津和野城門」、屋根が曲線を描く「剥くり屋根」)

 

「浜田川」沿いに建つ建造物「御便殿」は、後の「大正天皇」(当時東宮殿下)が1907年に山陰を行幸した際、浜田での宿泊施設として「松平家」の出資で建てられたもので、「浜田城」の「茶屋」と「庭園」跡に建てられたと思われます。これは凄く立派な建物で、木造平屋建て、大きな入母屋屋根を持ち前館と後館から構成されている近代和風建築ですが、まるで城郭建造物の「御殿」のようです。

 

「御便殿」(玄関、車寄)

「御便殿」

「御便殿」 (東玄関、車寄)

「御便殿」の古写真(庭園跡が残る) 

 

次回は、「芸州口の戦い」が行われた「長州軍」側の「岩国城」をお届けします。

 

 

下記バナーのクリックをどうぞよろしくお願いいたします。


お城巡りランキング

 

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村