先日の良い天気の日ですが、月に1度「天満橋」に用事があり、用事が済めば最近はその都度テーマを決めて「大坂城」(大阪府大阪市中央区)やその城下巡りをしています。今回の写真は、持参したカメラが放電して使用不能となり、仕方なくスマホカメラで撮りました。
「大坂城」天守
今回のテーマは、「大坂城」の「本丸」周囲を取り巻いて建っていた「三重櫓」跡の現状を、「本丸」跡内側から見てどのようになっているのかを探ってきました。「前編」と「後編」に分けてお届けします。
「後編」もご覧ください
「大坂城」内の「三重櫓」配置図(赤丸の箇所)
その前に、「大坂城」の「三重櫓」について少し蘊蓄を述べておきます。
江戸時代初期に、二代将軍「徳川秀忠」が「大坂」に幕府を置こうと計画していた頃があったらしく、その為に将軍が居城するお城として相応しい威厳さと格式を持たせたお城づくりをする一環として「大坂城」内に全部で11基建てたとも言われています。
江戸幕府を置いた「江戸城」ですら、「三重櫓」は7~8基しかなかったことからすると、凄い力の入れようだったと思います。
その「三重櫓」は、幕末・維新まで建ち並んでいて古写真にも残されていますが、残念ながら明治維新の大火災で殆どが焼失し、更に太平洋戦争で全く無くなってしまいました。特に、良く目にするのが、「本丸」東側の日本一の高石垣上に建つ「馬印櫓」「月見櫓」「糒櫓」の3基です。
古写真で手前から「馬印櫓」「月見櫓」「糒(ほしい)櫓」(「ミライザ」内に写真掲出)
現在では「本丸」跡の東側の「市正曲輪」跡から見上げるか、「二の丸」跡の「東仕切門」跡付近からのぞむ各櫓台の高石垣は割と目にしたり、写真に撮ったりします。
上の写真とほぼ同じ所から見た「馬印櫓」「月見櫓」「糒(ほしい)櫓」の各櫓台
しかし、今回は「本丸内側」から見てみようという企画です。
因みに、現存している「三重櫓」は全国で12基ありますが、これについては以前ブログでも特集しましたので、そちらも併せてご覧ください。
現存「三重櫓」特集のブログ
10月に「大坂城」に来城した時には、敢えて「本丸」跡内には入らず、「外堀」周囲から「二の丸」跡を抜けて外からの「大坂城」を楽しみました。
天満橋からは「大坂城」正門である「大手門」から入城し、続いて「桜門」(重文)から「本丸」跡へ入ります。まずは枡形正面の城内最大の巨石「蛸石」やその左面にある城内第3位の大きさを誇る「振袖石」の写真を撮り、特に今回は「蛸石」の「タコ」の姿をハッキリ捉えました。
「大手門高麗門」(重文)
「千貫櫓」と「大手門渡櫓門」(いずれも重文)
「大手門枡形内」
「本丸桜門」(重文)
「本丸桜門」枡形内の「蛸石」
「蛸石」に付いている「タコ」の姿
「本丸桜門」枡形内の「振袖石」
「桜門」の古写真(「ミライザ」内に写真掲出)
枡形を右手に折れて「桜門」の「櫓門」跡前を少し東側に進んだ右手に「雁木」がありますが、その先から、今回の目的物である「三重櫓」台が位置します。まず最初は「大番頭預櫓(南の手櫓)」跡の櫓台で、少し下側に凹んでいるようです。
※大坂城「ミライザ」内資料・写真室の古写真内の説明書きでは下線部が記載、( )内は一般的な呼び方のようです。
「大番頭預櫓(南の手櫓)」跡の櫓台
続いて、「多聞櫓」台の東側に続く「本丸」跡南東角に建ったのも同「大番頭」が管理していた「大番頭預櫓(東南隅櫓)」跡です。西面・北面どちらからも「雁木」で上り下りができるようになっています。
「大番頭預櫓(東南隅櫓)」跡の櫓台
「大番頭預櫓(南の手櫓)」(真ん中)と「大番頭預櫓(東南隅櫓)」(右)(「ミライザ」内に写真掲出)
因みに、「三重櫓」は全てが「多聞櫓」によって繋がっていましたので、石垣の淵沿いには「多聞櫓」が構えて防備していて、今も殆どが数段の段上になっています。
「雁木」の上が「多聞櫓」台が続きます
今度はその角から北に向かって並ぶのがまずは「具足方預櫓(馬印櫓)」跡です。この櫓台の前には、「大坂城」内の現存櫓や門等の「説明書」と同様のスタイルのモノが立っていて、こんな所にも立てられているのを初めて知りました。
更に「馬印櫓」の重要性についても初めて知りました。というのは、当櫓内には「徳川家康」が「大坂夏の陣」で使用した大将の所在を示す馬印が保管してあって、江戸時代を通して、在職中の「大坂城代」がそれ拝見することになっていたそうです。そして十四代将軍「徳川家茂」も、「長州征伐」に当たり、当櫓に入って馬印を拝覧したそうですが、明治維新の大火で焼失してしまいました。
櫓へは、南側の階段を上がり、西側に少し出っ張った櫓台上に向かいます。
「具足方預櫓(馬印櫓)」跡の櫓台
「具足方預櫓(馬印櫓)」跡の櫓台
「大番頭預櫓(東南隅櫓)」(左)と「具足方預櫓(馬印櫓)」(右)(「ミライザ」内に写真掲出)
次に北へ並ぶ「鉄砲方預櫓(月見櫓)」跡との間も、「多聞櫓」によって繋がれます。現在でも草の中に礎石がずらりと並ぶ姿が見られます。
当櫓も「説明書」がありそれによると、「鉄砲奉行」が維持・管理していて、備蓄用の武具・武器、兵糧を保管していたそうです。そこから覗いて見える外側の櫓台の「算木積み」は、凄く精緻な積み方になっています。
「多聞櫓」の礎石
「鉄砲方預櫓(月見櫓)」跡の櫓台
「鉄砲方預櫓(月見櫓)」跡の櫓台の精巧な算木積み
「鉄砲方預櫓(月見櫓)」跡の櫓台からのぞむ「大阪ビジネスパーク」
「鉄砲方預櫓(月見櫓)」(「ミライザ」内に写真掲出)
「本丸」跡の北東隅は「蔵方預櫓(糒櫓)」跡で、「説明書」によると「大坂蔵奉行」が管理していた櫓で、糒(干飯=ほしい)を備蓄していた櫓でした。尚、「豊臣時代」の「大坂城」であった時に、「豊臣秀頼」はこの「糒櫓」で自害したとの言い伝えが江戸時代にわき上がったそうですが、この櫓北西下の「山里丸」内には「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑が立ちますので、当時は一時的な噂だったのかもしれません。
現在は、「神社」が祀られていますが、その最北東隅から望む高層建築群の「大阪ビジネスパーク」は異次元の世界になっています。
「蔵方預櫓(糒櫓)」跡の櫓台
「蔵方預櫓(糒櫓)」跡の櫓台上に神社が建つ
「蔵方預櫓(糒櫓)」跡の櫓台隅からのぞむ「大阪ビジネスパークビル群」「大阪城ホール」「ホテルニューオータニ大阪」等
「蔵方預櫓(糒櫓)」(「ミライザ」内に写真掲出)
次のブログでは、「鉄砲方預櫓(北の手櫓)」の櫓台からお届けします。
下記バナーのクリックをどうぞよろしくお願いいたします。