今回の「日帰りお城巡り」の4城目「亀山城」(三重県亀山市)は「後編」をお届けします。

 

 

 

「本丸」跡南側については、前回のブログで紹介しましたので、本日は「本丸」北側から見ていきます。

 

城平面図(「多門櫓」内に掲出、今日は「現在地」表示の北側から右側(東側)を見ていきます)

 

「本丸」跡北側が少し低くなっているのは、「本丸御殿」が建っていた当時からかどうかは判りませんが、その北端は土塁で盛り上がっています。当時土塁上には、幕府に間違って解体されてしまった「天守」の後を、「天守代用」として「三重櫓」が聳えていました。

 

「三重櫓」跡の土塁

 

「三重櫓」の古写真が残っていますが、総塗込めで一重目の屋根の各方向に「千鳥破風」が付き、二階の壁面は上下に「長押(なげし)」を付けて天守代用としての格式をもたせていたようです。

 

「三重櫓」の古写真(「多門櫓」内に掲出)

 

前編でも記載しましたが、明治時代に入り解体され、その旧材を「本宗寺本堂」に使用されています。

 

「本宗寺本堂」

 

公園東端には、C17形機関車が展示されています。国鉄時代から「亀山駅」は、関西本線と紀勢本線の分岐点であり、このような機関車が活躍していたようで、駅構内にも給水塔等が残っていました。

 

 

「本丸」と「二之丸」の間は「楠門」で出入りすることになっていて、現在はそこには跡碑が立ち「亀山城跡」の説明書きも立っています。

 

「楠門」跡

 

右側へ下っていく坂道は「石坂」と呼ばれ、「池の側」と呼ばれる「外堀」と「本丸」跡南下にあった「外堀」の間を通って「東海道」に合流します。

 

「石坂」と「外堀」の一部(「池の側」)

 

坂を上がった所には、当時「石坂門」と「石坂脇櫓」が建っていて、「本丸」「二之丸」の入城を監視する関門だったようです。

 

「石坂門」跡辺り、奥に「石坂脇櫓」が建っていた

 

その突き当りにはかなり広い「二之丸御殿」が建て込んでいたようで、現在の「亀山西小学校」の敷地がその跡になります。その遺構は、城下の南側を抜ける「旧東海道」から少し南側に入った所に建つ「遍照寺本堂」に「式台・書院」が移築されていていますので、「多門櫓」内に掲出されている当時の古写真を見て確認することができます。

 

「二之丸御殿」平面図(「多門櫓」内に掲出)

当時作成の「二之丸御殿」平面図(「多門櫓」内に掲出)

「二之丸御殿」跡に建つ「亀山西小学校」

「二之丸御殿」の式台・書院が移築されている「遍照寺本堂」

「二之丸御殿」の式台・書院が移築されている「遍照寺本堂」の式台部分

「二之丸御殿」の式台・書院が移築されている「遍照寺本堂」の大きな鬼瓦と蕪懸魚

「二之丸御殿」の式台・書院が移築されている「遍照寺本堂」

「二之丸御殿」の古写真(「多門櫓」内に掲出)

 

「二之丸御殿」北側は、当時庭園となり築山があり、更にその一段下には東西細長「二之丸北帯曲輪」設けられ、北側堀上の防備をより一層固めていました。「帯曲輪」へ降りる出入り口は「二之丸北埋門」でその上には「二之丸北櫓」が建っていました。

 

現在は、小学校の北側フェンス外の一帯を発掘し、その後整備事業によって、「築山」跡を発掘された御殿瓦で場所明示したり、御殿礎石や玄関前に敷かれていた黒石を展示したり、更には「二之丸北埋門」階段や石垣の積み直し、「二之丸帯曲輪」の縁沿いを土塀で囲うことでお城の雰囲気造りをしています。

 

「二之丸御殿」跡を北側からのぞむ(亀山西小学校敷地)

「二之丸帯曲輪」と「二之丸北埋門」の整備事業について

「二之丸御殿」の築山を御殿瓦で表現

「二之丸御殿」の礎石と玄関前に敷き詰められていた黒石

整備された「二之丸北埋門」(「二之丸」跡から「二之丸帯曲輪」跡方向)

整備された「二之丸北埋門」(「二之丸帯曲輪」跡から「二之丸」跡方向)

整備された「二之丸北埋門」(「二之丸」跡から「二之丸北帯曲輪」跡方向)と「二之丸帯曲輪」跡の復元土塀

「二之丸帯曲輪」跡と復元土塀

「二之丸帯曲輪」跡と復元土塀

 

「二之丸北帯曲輪」の復元土塀の北側は、大土塁の急斜面になっていて、右手には「神戸櫓」台と思われる所には、学校の建物の一部が建ちます。

 

右手の小学校の建物辺りが「神戸櫓」跡(「二之丸帯曲輪」跡からのぞむ)

「神戸櫓」跡辺りからのぞむ「二之丸帯曲輪」跡

 

「二之丸」の東側には「東三之丸」が拡がり重臣屋敷や土蔵が並んでいました。そして境目辺りに並んでいたのが、北側から前述の「神戸櫓」「江ケ室門」「太鼓門」「太鼓櫓」が建ち、特に「太鼓櫓」は三重三階の方形で最上階には太鼓で時を告げていました。

 

現在は、「石坂門」跡前から東に延びる道沿いに、小学校の校門や塀は城郭風に設えられ雰囲気を作っています。小学校東側を北に折れた道沿いには、「太鼓櫓」跡碑が立ち「太鼓櫓」石垣跡の写真が掲出されています。また、その東側には「太鼓門」跡碑が立ちます。

 

城郭風の「亀山西小学校」の校門や塀(西方向)

「東三之丸」跡の住宅街

「太鼓門」跡辺り

「太鼓櫓」跡

「太鼓櫓」の石垣出土状況(「太鼓櫓」説明書きに掲出)

 

「東三之丸」南東には「大手門」とそれを監視する立派な櫓門の「東大手櫓」が建ち、「大手門」手前を南に折れる「旧東海道」を睨む重要ポイントであったので「番所」と「高札場」も置かれていました。

 

現在は「大手門」跡には碑もないですが、交差点の南西角には「高札場」であったことを説明する看板が立っています。

 

「大手門」と「東大手櫓」の古写真(「多門櫓」内に掲出)

「大手門」跡(左方向=南方向に曲がる「旧東海道」)

「高札場跡」

 

「大手門」跡から更に右に曲線を描いて進む道を歩き、城下の東の玄関口である「江戸口門」跡を見たく足を延ばしました。しかしそこは、現在交差点になっているものの特に遺構もありませんでしたが、当時の「東海道」が北側から曲がってくる場所でしたので、その道筋は残っていて説明書きも立っていました。

 

「江戸口門」跡(左へ曲がる「旧東海道」で江戸方向)

「江戸口門」脇の高台からのぞむ城下方向

 

そこからUターンをして「大手門」跡まで戻り、左手(南側)へ折れて「旧東海道」の坂道を下って行きましたが、両脇には当時の宿場町内にあった宿屋や商家の名前が現在の建物前に掲出されるという工夫がされていました。古い宿屋風、町屋風の家並みを見ながら、最初にスタートした「外堀」である「池の側」まで戻ってきました。

 

屈折する「旧東海道」の「亀山宿」

 

「旧東海道」沿いの旧商家扱い商品

「旧東海道」沿いの旧家

 

もう一度、「本丸」跡石垣に聳える「多門櫓」を拝みながら、既に陽もだいぶ傾いている16時前でしたので「亀山駅」へ急ぎました。

 

「多門櫓」

 

「亀山駅」は、JR西日本とJR東海との丁度境目となる駅で、管理は「JR東海」側が担っているようでした。また、「JR東海」は、「亀山駅」から「名古屋駅」まで電化されているので電車となり、殆どが普通列車で運行しています。

 

JR東海の「名古屋行普通」電車

 

私は、16時11分発「加茂行」のJR西日本のディーゼル車に乗り込み、亀山に来るときに乗り換えた「柘植」を通過して「加茂駅」まで乗車しました。「加茂駅」からは、「大阪駅」行の「大和路快速」で後は乗り換えることなく1時間10分で「大阪駅」に到着しました。

 

JR西日本「加茂行」ディーゼル車

JR西日本「大阪行大和路快速」

 

今回も、いい天気に恵まれ、真っ青な空の下最高のコンディションでお城廻りをすることができ、いい1日を過ごすことができました。

 

次回以降も行きたい所が目白押しですが、コロナ禍の「非常事態宣言」下では、極力人手のすくなそうな所を選んで慎重にアプローチしたいと思っています。

 

 

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