今回の「日帰りお城巡り」の4城目は、「亀山城」(三重県亀山市)です。

 

「甲賀郡中惣遺跡跡」の3城を見た後、「柘植駅」経由で関西本線の気動車に乗って「亀山駅」に着きました。時間は14時を少し過ぎたところでしたが、日没が早い山深い所ですので、事前に計画したルートに則って足早に効率よく巡りました。

 

「亀山城」の原点は、13世紀中盤以降に「関家」によって築かれた「亀山古城」で、現在の「亀山城」の一部まで城域があり約300年間も勢力を維持していました。

 

しかしながら、「織田信長」が伊勢へ侵攻したことで追放され、「岡本良勝」が入城して大改修を加えるとともに「天守」も建てました。

 

関ヶ原の戦いでは西軍に属した為、「岡本家」は滅亡、その後「関家」「松平(奥平)家」「三宅家」と城主が次々と変わりますが、「三宅康盛」の時に、幕府の「堀尾忠晴」が「丹波亀山城」の修築命令を出したのですが、誤って「伊勢亀山城」を修築し更に石垣修築に邪魔だからとの理由で「伊勢亀山城」の「天守」を解体してしまいました。

 

その後も、「天守」は建てられることなく、次に入城した「本多家」によって「天守台」の跡に現在の「多門櫓」が建てられました。また、「三重櫓」もこの大修築の中で建てられました。

 

元天守台に建つ現存「多門櫓」

 

その後「板倉家」「松平(大給)家」が入り、1744年に「石川家」が入城してやっと城主が定まり幕末・維新まで続きます。

 

さて、「亀山城」へのルートですが、駅は谷底のような場所にありますので、そこからはお城は見えず北側に向けて坂道を上ります。以前2回程来訪していますので何となく面影がありました。

 

「亀山城」内の櫓・門配備図

 

上り切った所が、「旧東海道」が少し方向を変えて西に進む分岐点です。現在「池の側」と言われる「外堀」の一部の南端からは、ほぼ真北に「本丸」跡の立派な石垣の上に建つ「亀山城」のシンボルでもある「多門櫓」が見えます。

 

「東海道 亀山宿」碑

「池の側」(外堀)脇から見る「本丸跡」と「多門櫓」

「池の側」(外堀)脇から見る「本丸跡」と「多門櫓」

 

こちらは、後からジックリと見ることにして、まずは「旧東海道」沿いに西側へ進みます。この界隈はお城の「西之丸」跡となり「作事場」や重臣の屋敷や藩校が置かれていた曲輪です。

 

その南側「旧東海道」沿いに、白壁が綺麗な蔵が南側に並び如何にも古さを感じる立派な建造物が建ちますが、ここは幕末から大正時代にかけて商いをしていた呉服商「旧舘(たて)家住宅」で、現在の主屋の建物は1873年に建てられたもののようです。

 

呉服商「旧舘(たて)家住宅」

呉服商「旧舘(たて)家住宅」の蔵群

 

この裏に建つ「善導寺」には、「本丸」跡から出土した石造物があったそうでしたが、お寺を通り過ぎてしまい確認することができませんでした。

 

その前を通り、道標が立つ十字路を右手(山手)に入ると「青木門」跡があり、当時は枡形であっただろうと思われる左へ屈折した道路になっています。当門は、「亀山城」の搦手門でもあり、「徳川家康」が「亀山城」に泊まり当門を通った時に、周囲に茂るアオキを称賛したことからその名が付いたとのエピソードがあります。

 

道標(左手へは東海道、右手は城内)

「青木門」跡(右に行くと道標)

 

先ほどの道標を真っすぐに進むと左手にゆるやかに曲がり坂道となってその下には川が流れます。そこが、「亀山城」城下に入る一番西側の門で「京口門」跡になります。当時は、ここに「番所櫓」も置かれ、「東海道」を西から入る者たちを厳しく監視していたそうです。

 

「歌川広重」の浮世絵には、この「京口門」と「番所櫓」が雪の中に描かれています。現在は、アスファルトの道路と頑丈な橋になっていますが、坂下から見上げて「広重」に倣いましたが、雰囲気だけを味わいました。

 

「歌川広重」の浮世絵(右上に「京口門」と「番所櫓」が描かれている、「京口門説明板」に掲出分)

古写真「番所櫓」と「京口門」(「京口門説明板」に掲出分)

現在の「京口門跡」手前の坂道

 

次に、少し「旧東海道」を戻ると「西之丸」を西側から南側にかけて取り巻いていた「外堀」の一部が復元されていますが、出土状況の写真と解説が立ち、コンクリートに塗り込まれているだけで全く風情なく興覚めでした。

 

「西之丸」跡の南西隅の「外堀」跡

 

そこから「旧東海道」より一本北側の筋に沿って、江戸後期「石川家」の家老だった「加藤家」の「加藤家屋敷跡長屋門」と「土蔵」、「主屋の一部」が残され市指定文化財にしてされています。

 

「加藤家屋敷跡 長屋門」

「加藤家屋敷跡 土蔵」

 

「長屋門」内側の脇には、「男子部屋」「若党部屋」「厩」が併設していて当時の仲間という武家奉公人の生活場所が良くわかる部屋です。また門から中に入った所に建つ「主屋の一部」も興味深く見ることができました。

 

「長屋門」内側

「長屋門」内の「男子部屋」

「長屋門」内の「若党部屋」

「長屋門」内の「厩」

「主屋の一部」

「主屋の一部」の部屋

 

そこをじっくりと見てから北側に進むと藩校「明倫舎」跡に建つ「亀山中学校」の敷地となります。

 

「西之丸」西側の出入口「黒門」跡を右手に折れて少し北に歩いた場所には、藩主「石川家」の菩提寺の一つである「本宗寺」が建ちますがその本堂は、「三重櫓」の部材を使用して造られていると観光パンフレットに記載していたので興味があり見に行きましたが、そんな感動モノではありませんでした。

 

「本宗寺」本堂(「三重櫓」の部材を使用して建てられたモノ)

 

「本宗寺」の東側には「西出丸」の土塁が立ち塞ぎますが、その西端の土塁の櫓台上に「関見櫓」が建っていました。

 

「関見櫓」跡

 

「西出丸」は少し高台になっていてその上は駐車場等として使用され、それに続く西側は「本丸」跡となっていますので、「本丸」防衛用の曲輪だったと思われます。

 

「西出丸」跡と土塁

「西出丸」跡北側の土塁

 

「西出丸」と「本丸」各跡の南側も北側も当時は非常に幅がある「水堀」と「空堀」で守られていて、南側は高石垣がびっしりと積まれ、横矢掛りも設けています。北側も高さがある土塁を築き、「水堀」「空堀」が連続して繋がっており、「二之丸北曲輪」下辺りまで伸びていました。

 

現在、「本丸」跡の南側下の「水堀」は埋められてグランドとして使用され、北側下の「堀」は、しょうぶ園として一般開放されています。

 

「本丸」跡南側の高石垣と横矢掛り

「本丸」跡南側下の「水堀」は埋められてグランドに

「本丸」跡北側下に広がる「しょうぶ園」も堀跡

 

「本丸」跡の東隅の「天守台」跡に建つ「多門櫓」は、L字形の平櫓で白壁造り、本瓦葺で、窓は南側2箇所、内側は全く無いが出入口が三箇所付いています。

 

高石垣に建つ現存「多門櫓」(東南隅)

現存「多門櫓」(東面)

現存「多門櫓」(L字型)

現存「多門櫓」の北出入口

 

2013年の修理前は、下見板張りになっていましたが、元々は現在のような白壁でしたが 1897年に雨風による腐食防止の為に取り付けたようです。

 

2013年の修築前の姿(下見板張り、窓の数も3箇所に改変されていた)

 

江戸時代の「多門櫓」の用途は「武具庫」であったらしく、今回中を見ることができましたが、仕切りがなく、壁も柱が見える真壁造りで小屋組みの武骨な感じがします。

 

真壁造りの土壁と小屋組み

中央から出入口方向

剥き出しの小屋組み

 

「多門櫓」を支える石垣ですが、裏側に廻ると二種類の積み方が見れます。「野面積み」とL字型の西面は「谷積み(落とし積み)」になっていて、幕末に積み直しが行われたらしいです。また、「井戸」跡も残ります。

 

左(西面)は「谷積み(落とし積み)」、右(北面)は「野面積み」

「井戸」跡

「井戸」跡

 

「本丸」跡は、平面図で見ると広くはないですが、道路を隔てて南側には「多門櫓」等の建造物が建ち、北側は公園となって別れています。ここには「本丸御殿」が建てられていました。

 

「本丸御殿図面」(「多門櫓」内に掲出)

 

「本丸」跡南側の現在は、前述の多門櫓の他に、「亀山神社」の境内になっていたり、明治天皇行在所(あんざいしょ)の一部や江戸時代の「南崎権現社」神官の「久保田家邸門」が移築されたりと、所狭くなっています。

 

「亀山神社」の境内(「本丸御殿」跡)

「明治天皇行在所(あんざいしょ)」の一部が移築(「本丸御殿」跡)

「南崎権現社」神官の「久保田家邸門」が移築(「本丸御殿」跡)

 

一方、道路を挟んだ半分は公園になっています。今回のブログ「前編」はここまでとして、次回「後編」では、「本丸」跡の北半分からお話を進めたいと思います。

 

 

 

下記バナーのクリックをどうぞよろしくお願いいたします。


お城巡りランキング

 

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

PVアクセスランキング にほんブログ村